2017年10月09日

楽しまなあかんのか


 最近思うんですけど、スポーツ選手が意気込みを聞かれて
「楽しみたいと思います」
と言わはるでしょう。
 スポーツ選手は元々好きなこと、つまり楽しめることをやってるからいいんですけど、普通の人ってそういうことってできるもんなんですかね。
 たとえば受験に向かう子にニッコリ笑って
「楽しんで!」
とか言えませんよねえ。

「楽しむ」というのは「そのことに向かい合う」時のやり方のひとつに過ぎず、それには、その人それぞれで個性や好き嫌いもあれば、時代の流行りもあると思います。
「他の誰でもない自分自身のために」もあれば、「お国のために」の頃もあり、もちろん「金が欲しい」「モテたい」も立派な姿勢です。なにかの抑圧から逃げてるかもしれないし、強迫観念に突き上げられてやってるかもしれない。それは当人には不幸ですが実際ある(だろう)ことだし、結果は物理的に出てしまうので、楽しむ人が「これに負ければ玄界灘に身を投げねば」という真っ青な顔で立ち向かう人に負けることもままある。

 自分の「なにか」でいいんではないですかね、別に楽しまなくても。
 楽しめなくでも。

 さっき「≒」で結びましたがそれは「好き」という魔法の言葉でも同様で、別に好きを仕事にせんでもええし仕事を好きにならんでもええし、それは家族や友人だってたぶんそうです。
 義務感や責任感や正義感や、いや、「しょうがねえな」という諦めだったり「恩を返したい」という気持ちだったり、まあそんな綺麗なものやカッコイイものでなくても、別にいいと思うんです。
 手が身体が動けば。
 いまたいせつなのは現実を動かすために手を身体を動かすつまり「やる」ってことで、やってさえ居ればその奥に何を考えてようと思ってようと感じてようと、構わない。

 馬齢を重ねると、このへんのことは自分なりの折り合いがつけられるようになってくるのですが、若い頃は要らん罪悪感に軽く苛まれたりもしたものです。
「オレ別にこれ楽しめても無いけど、ええんかなやってて」
みたいな。
 いや、それはやれるポジションに居てやってよしと許されているならば、別にやってていいんだよ。

「おまえのそれはダメだ」
と罪悪感を投げつけることは相手を支配、が言い過ぎなら制御する第一歩で、あまりそういうことをビュンビュンやってくる人間や媒体や組織や仕事やなんやかやからは、逃げ出した方がいい、というのは普遍的な話。

 楽しまなきゃならないこともないし、
 楽しんじゃいけないこともない。
 と思います。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記