2017年10月11日

本「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ




 NHKの「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」の本放送を観て
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=11917
「あっこの人はおもしろい人だ」と思って買って2年ほど積ん読。慌てて読んだ。
 祝ノーベル賞ー。

 まず書き手の端くれ視点で言うと本当に巧い。
 本当の巧さというのはどんなジャンルの技芸でも「なんでもないように見える」ものです。大ネタ1つであとは標準的なユニットを普通に使ってるけど、ドーンと来る。これが凄い。
 料理でいうとジェノベーゼで、めっちゃ美味いんだけどなんだこれはと。厨房覗くとディチェコの乾麺とボスコのオイルだ。なぜだこれは。
 どうやって作るんだ?
 いや違う、作り方はわかってる、なぜ俺に作れない?
 これがまず怖い。
 凄い素材使ってる、とか超絶技巧が凝らされてる、方がよほどマシ。諦めがつきますからね。

 大ネタのネタバレが1/3時点、というのも憎い。
 そこまでは「ああなにこれなにこれ」と思いながら読み、そのあとは「あああそっちいったらあかんそっちいったらあかん」と思いながら読む。一ネタで二度美味しい。
『こころ』とか『この世界の片隅に』とかもそうですね。前か後ろの1/3ぐらいのところでガシャッと世界が変わる。

 その大ネタも原版発表が2005年ですから、もはや手垢がついたというかむしろ現実が追い越してしまってる古いネタです。そこを逆手に取って堂々と「もしそういう世界だったら?」と訴えることで、さらに逆に「倫理」的な問題に対して普遍的な問いになっている。
 こうはならなかった現実はしかし、またいつでもこうなりうる。
 それが怖い。
 いや、いま動物たとえば牛や馬、犬や猫に同じことをしてないか?
 なにが違うんだ?

 SFやファンタジーは舞台が日常とは大きく変わっているけど、人間とその考え方はだいたい現代と同じ、という風に組み立てるものです。しかしこれは逆、舞台は寄宿舎の日常でありながら、人間の考え方そのものが変わっている。
 死生観というおおもとの部分を改変されてしまうと、人間が人間でないように見えてくる。
 これも怖い。
 ぜんぶ「死ぬ」ではなく「使命を果たす」って言うんですよ。
 怖いでしょう?
 クルマで1時間以上掛けて荒れた湿地へ小さな難破船見に行くんですよ。それがレクリエーション、お楽しみ。隠喩抜きにしても嫌でしょう? でもリアリティあるんですよ本編では。

 エリス先生、「昔、名を馳せた老婆」ってのは本当に怖い、というのは現在の日本でもよく見る風景ですが、いや本当に怖い。マダムの方がよほど人間としてわかりやすい。

 いま振り返ってみても特別なことは何もしてないのですが、全体として特別なものになっている。これぞ小説。
「文学とは」という問いに、いま仮に「『人はなぜ生きるか』を問うもの」と答えるなら、この作品はまっすぐに問うてます。人ではない人、人ではない人にされている人でしかありえない人、の語りを借りて。
 ここもたぶんにメタ的というか、表現難しいんですけど、変化球のようでストレートずどん、という感じ。
 逃げられないんですよね。ハムレットが「to be, or not to be」と呟く時にしかし僕らは他人事、なわけですが、これはそういう「これはこの人の話」という意識の逃げを許さない。なぜというならキャシーはわたし自身だから、です。
 こんなに境遇がかけ離れている人物を、まるで自分(読者)のように、自分でしかありえないように思わせる、そのように描く、これが凄い。そして怖い。

 お若い方に「『小説』とやらを読みたいのですが、一冊読むとするなら」と尋ねられたら、いままでだったら僕は「『こころ』」と答えてましたが、こっちにするかもしれない。読みやすい上に普遍的だから。

 読み終えたあと「ああ、生きててよかった」と思える本は、いい本です。
posted by 犀角 at 04:26|