2022年03月07日

接続するぞー!


以下はFantiaに投稿したテキストです。
こちらにもコピーしておきます。
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きのうの『VでRで』の補足みたいなことを。

 今日お風呂入ってて
「あそうだ『虚実皮膜論』」
 ご存知・世阿弥師匠の
「虚と実の被膜のうちに芸がある」
というわかるようなわからんような謎の言葉ですが、
もしコンテンツが拡張現実なら、
その「拡張させる」ってところが技術ですよね。
 自分の現実に接続されず、拡張されないままだったら、虚構は虚構のまま、幻は幻のままで、「(自分の)現実」にはならない。
 くっついてはじめて、「(自分の)現実」になる。

 ところが一般に
「コミュニケーションは受け手が行う」
ものなので(これを説いたのがPFドラッカーですよ覚えておきましょう)、作者が「これをあなたの現実に組み込んでくれー!」となんぼ吼えても、受け手がその気にならなければ幻影のままです。
 だから、
 芸を凝らして、
 接続させる。

 芸はその虚構、幻影、幻を構築するために使われる「のみならず」(もちろんこっちもだいじ)、それを受け手が自身の現実に接続する、拡張する、そうしやすくなる、したくなる、知らずにしてしまう、そのように仕向ける、ところにこそ、あるし、使われる。

 オタク・コンテンツとか、小説でしたら「ジャンル小説」なんて言われちゃう、SFとかミステリとか、そういうものが若干下目に見られちゃうのはひょっとするとここで、そういうものは受け手が飛び込んできてくれるんですね、欲しいから。欲望や感情感覚を強く叩くので。
 と、比較的・相対的ですが、今言うところの「芸」の必要性が低くなる=あまり凝らされなくなりがち。
 本格派やってる人たちからすると
「そここそが一番たいへんで難しいんやろが!
 そこやれへんかったら意味ないやろ!」
ということになる。
 もちろんそれには反論もあって、
「そこを外すからこそリソースを虚構構築の方に費やせて、ありえないほど荘厳で緻密な世界を築き上げることができるんだ!」
とか、
「ターゲットユーザーが望むものがわかってんだから、それ以外にリソースを割くなど蛇足あるいは屋上屋あるいは盲腸!」
とか。
 さらにいえば、楽な道でもなんでもなくて、当然市場のライバルは同じようにそこにリソース割かないので、競争条件は同じです。アノマリーを見つけるからこそ優位に立てるのであって。軽は普通車に比べいろいろ削れるわけですが、スズキとダイハツは長年血みどろの戦いをしてきたわけです。

 あるいは任天堂という会社が、ゲームビジネスで未だにちょっと格の違うポジションに居るのは、山内さんから横井さん岩田さんもちろん宮本さん、キープレイヤーがみんなその
「何も知らない人にどうやってゲームをやらせるか」
という接続の点に腐心し続けてきているから、ではないでしょうか。彼らは常にそれを社是としてハードをソフトをサービスを開発してますね。
 そこが一番たいへんだから。
 ゲームに関わる人ならみんなそれを知ってます。
 僕もオタオタMAXの隅っこに居ましたけど、それでも
「ゲームの開発をしています」
という言葉は大人たちに響かないのなんのってもう。
 ホントに。
 2022年だったら違うんですかね、だいぶお年を召した方もスマホでなんかやったはりますね、カフェで画面が目に入ると。
 だからそこに常にコミットしてエネルギー使ってる人々には、尊敬しか無いです。

 また同じ話で恐縮ですが、中学生の頃、篠原先生に教わった、
「女の幽霊が歩くと、裾が引っかかって炭取りが回った」
(炭取り=竈の炭を囲炉裏に持ってくる片手鍋みたいな道具)
という描写、この「炭取りが回る」ことによってこの画面が劇的にリアリティ・アップし、幽霊の実感(?)がいや増し、恐怖や不気味さが湧き上がるんだ、と小林秀雄が柳田国男の描写を激賞してて、先生が文藝部で
「炭取りを回さなあかん!」
と力説されて、無垢な少年であるところのエテクシは「まったくそのとおりだ」と痛く感心して幾星霜、少年老い易く芸成り難し、ようやく
「やっぱ炭取り回さないとダメですよね3先生!」
と腑に落ちた次第です。
 あれ14歳だったと思うから36……うわぁ……

 さっきのオタクコンテンツの例で言うと、幽霊が黒髪ツインテールでオッドアイでゴスロリ着てる、っていう描写はそれはそれでいいんですよ、いいんですけど、それだけだとその幽霊はそこに突っ立ったままなんです。
 その子が、バン!と部屋のドアを開けて
「あー、○○、また深夜ラーメンにニンニク入れた。
 くっさ」
と罵倒してくると、バチッと接続されますでしょう貴方の現実に。
「いいだろ別に顔突き合わすわけでもなし」
「……顔突き合わせられなくなるじゃん……」
 ほら!
 来た! 近く来たよ!
 だから僕はゲーム、特にビジュアルノベル系や、RPG系のゲームにとても関心を持って、こんなことになっちゃってしまったわけでござる。

 それはいいんですが、まあ世阿弥師匠も言ってることだし、小林秀雄も力説してるくらいだし、やっぱりここはだいじだと思います。
 むしろここさえしっかりしていると、接続先は別に普通のことしか起きてなくても大丈夫な気がする。
 自分の世界が広がる、ってことに対して人間はおそらく、特に若いうちは、本能にも似た欲求がある、ような気がするんです。
 知識欲・情報欲と言われますが、それを使って何をする、何かのために何かが欲しい、というよりも、ただ世界が広がるのが楽しい・気持ちいい・満たされる。
 年齢は関係ないかな、そういう志向の人と、いつもと同じが好きな人と、でグラデーションがあるのかもしれません。

 では具体的にどこをどうするんだ、というと、それはその作り手の個性・来歴・持ってる知識や技術・やりたいこと等等によって違ってきます。
 あたりまえですよね。
 ですからここの、「接続の工夫」について一般解が無い、というところが創作の一番むずかしい点で、当然、教えられもしない。師匠が居たとしても「私はこうした」とは言えますが、それが弟子にフィットするとは限らない。まあ芸事はなんでもそうですけど。料理でも刀鍛冶でも鍼灸でも。
 物理作成技術の細かいところは無限にあります。
 で、心構えみたいなところもその人の数だけある。
 だから、その二つをつなぐ、イメージを現実にする接続技術、みたいなところも当然無限にある。
 自分で見出すしかない。

 わはは、そりゃここ回避したくなりますね。

 まあちょっと肩の力を抜くなら、それもきっと限界があることで、そこがいかに優れていてもイメージの強力さに負けることもあるし、強いソウルが溢れてくるようなものに圧倒されることもあるし、コダワリ過ぎは何でもよくないですね。

 ここまで書いてきても、見果てぬ夢を見ているだけのような気もするし、もしそこが本当にキモだったとしても人生の幕が下りるまでにあるていどモノにできるのかどうかもまるで見当もつかないし、この話題そのものが、幻のようです。
 どこにも接続されてないような。
 いや、まあ、すくなくとも僕の拡張現実ではある、とは思います。
 どうですか?
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2022年03月05日

V=R


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「メタバースってセカンドライフと何が違うん?」
と虚空に問うおじいさんですどうもこんばんわ。

 VR=ヴァーチャルリアリティ、AR=オーグメンテッドリアイリティなどなどこの辺の技術が次の金脈だ!と、金鉱掘り達がわっせわっせとマイニングしていますが、「なんとかリアリティ」だってそもそも現実=リアルではないでしょうか。

 わたし30代の頃『FF11』というMMORPGをずっとやってまして、期間ではおそらく11年ぐらい、実時間ではプレイタイム見ますと370日以上、つまり1年あっちの世界(ちなみにヴァナ・ディール言います)に留学?赴任?していたんですが、もうリアルですよ。
 今でも思い出す、フルアラ18名ギリギリの難敵NMとの死闘、ヒーラーが盾を庇って倒れ、その盾も不死技切れて倒れ、ターゲット取ったアタッカー達が無残に骸を晒していく中、最後に残った黒魔道士(ヌーカーが残るな)の私がですね、スックと立ち上がって(休んでたんか)無限魔力技発動、最後の最後で最強魔法をぶっ放して最後1ドット削って倒す。「やったーーーーー!!!」流れる歓喜の声声声、
「わたしヒロイン!!」
の高揚感。
 あれは現実でございます。

 まあそこまでではなくても、マンガ読んで・小説読んで・音楽聴いて・名画観て・その世界に没入する経験は皆さん毎日のように経験されてるでしょうし、広げればスポーツだってそう。あるいは、ニュースひとつだってそうと「拡張現実」と言えるかもしれません。
 ソローの『森の生活』みたいなのしてたなら、ウクライナとロシアがどうなろうと何も知らない。

 コンテンツづくりというのは、この、
「誰かの現実(人生)を拡張するもの」
という視点で観ると、わりと素直に尊いと思えることですし、古今、それこそアルタミラの洞窟の時代から、上手に大きく拡張できる技術やセンスを持つ人が高い称賛を受けることも納得できます。
 近代以前はもとより、現代でもコロナ禍ひとつで電車に乗って隣町にも行きづらくなる、人間にはその程度のモビリティしかなく、月や異世界はおろか、昭和初期ぐらいなら「海を見たこと無い」という人が山のように居たものです。
 でも、そういう人たちでも「海」を経験できる……というか、海という現実を自分の現実に付け加えることができる、そのための大変強力なツールが、コンテンツです。
 もちろん教科書や百科事典で「海」を知ってもいいわけですが、それよりも映画でTVで小説でアニメでラジオでゲームで最近ではSNSなりなんなりで、様々な角度から「海」を感じると、自分の現実に付け加わる「海」がより豊かに大きくなる。

 反面、そういうご時世ですから、逆にさして欲しくもないのに降ってくる「現実」に振り回されもします。特に戦争なり災害なりの大事件が起きますと、文字通り洪水のように「求めてもない現実」が降り注いで、気分が悪くなったりもします。小狡い輩がそれを利用した言動をして、ビューを集めたりもします。
 でもそういう状況下でも、善意すくなくとも悪意抜きでちゃんと作られたコンテンツは、アジール=避難場所になる、少なくともそれをしばらく忘れさせてくれる解熱剤にはなる。

 というところを考えますと、それらコンテンツ製作の方針として、
「拡張現実として取り込みやすい」
みたいなところをめざす、のも手かもしれません。
 言ってて茫漠としてて「どないすんねん」という感じですけど(笑)
 ひとつ、昔から思うのですが、
「五感にアプローチ」
というのはあるんじゃないかと思います。言うまでもなく、
 見える・聴こえる・触れられる・嗅げる・味わえる
ですが、それらがやれているような感じになる。
 特に、例えばマンガだと視覚の点ではみなさん一生懸命工夫を凝らし心血を注ぐ、わけですが、それ以外の四感が立ち上ってくる、ようなものはなかなかありませんね。グルメ漫画数ありますが、ホントに美味い物が目の前に出現して・喰えて・超美味い、という気になれる作品は、もちろん読者によりけりでしょうけども、そんなにあるようには思いません。
 でもそこについても、意識して工夫が凝らされているのと、ぜんぜんハナから何もしない、というのとでは、長い目(?)で見て大きな違いが生じる、だろう、と思うのです。

 わたしがこういう小文をしたためるときにいつもまるでラジオ・パーソナリティかなにかのように、喋り言葉に近い文体とディテールとリズムで書きますのも、つまり「人の話を聞いた」というリアル現実(笑)に近い実感を得てもらうことで、自分の現実が膨らんだような気がする、といったところを狙っているのかもしれません。自分でもわからないのですが。
 それだったらラジオでいいじゃん、という話にならないのは、文章で・まるで聴こえてくるようだ、という点で二感にアプローチできる、からです。(もちろんどっちつかずになる危険性はある)
 司馬遼太郎先生の文章は視覚刺激性能が高く、読んでるとまるでバルチック艦隊が距離八千に迫ってくる気がするのですが、それが意図的なものかどうかはともかく、結果として大作家・大作品群になっているひとつの大きな理由ではないか、と思います。
 くどいようですが、やってやれるかどうかはわからないですが、意識してるかしてないかでは差がある、と思います。
 思います、というか信じます、ってレベルですね最早。

 個人的には、そこの「繋ぐところ」っていうのにコダワリ倒して来たつもりで、それがハマる人にはハマったんじゃないかと思うのですが、確証はありません。どのぐらいできてるかどうかもわからない。ひょっとすると全部幻かもしれません。

 というところで最初に戻ると、幻も、見た以上はその人の現実です。
 いい幻をたくさん見れたり、いい幻を一生懸命追いかけることができたら、それはいい現実つまりいい人生を生きたってことになるんじゃないでしょうか。追っかけるのがVtuberかトロイの遺跡かでそんなに違いはない。
 ない?

 終活で部屋片付けてたら本が出てきて
「わーこれ楽しかったなぁ……」
とホッとして貰えるような仮想拡張幻現実を、つくりたいですね。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2022年03月04日

すべて捨てよ


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最近の僕の仮説なんですけど、
もうこれ「構成」とかって全部捨てちゃうのも手かもしれません。

結局、
「おもしろさ」ってなんだろう?
という疑問に対して、
「きっとそれは作ることができるもので、作り方がある」
という前提があるから、
「答えを探そう」
ってことになるわけですが、
この前提がもし間違ってて、
「そもそも作ることはできない」
だとしたら?

もし「おもしろさ」のキモがわかったとしても、
それが人間の手で(僕の手で)再現できないのであれば、
わかり損(?)ですよね。ガックリするだけで。

20年前後ウニウニ考えて調べてやってきて思うんですけど、
「これ作れないんじゃないか?」
もちろん文章(なり音なり画なりなんなり)を作ってるのは自分なので、作っては居るんですけど、作為的に
「おもしろいものを作ろうとしておもしろいものができる」
ということは無い……ような気がしてならないんですね。

創作ってカオスそのもので、
決定論的な方程式に放り込んでも、
ほんのちょっとした初期値の違いで、
まるで違う軌跡が描かれるわけでしょう。
同じように、
キャラとか世界観とかストーリーとか小ネタとか
いろんな角度・要素からそれっぽく構えても、
描かれる軌跡が美しい=おもしろいとは限らない。
ハリウッドでも、
最近は減りましたけど、
大ネタでスター集めて大予算で大ゴケすることありますからね。
おもしろい、っていうのはそういう問題じゃない。

じゃどうすんだよ!
と自分にキレ気味にツッコんでみると、
もうこれ、構成とか仕掛けとか一切合切ぜーんぶ捨てて、
「そんとき思いついたものを、
 できるだけシンプルに描く」
しかないんじゃないか。
「勝つと思うな思えば負けよ」
は柔の世界だけではなくて、なんにでも共通でしょう。
となると、
「おもしろくしようとするな、
 思えばおもしろくなくなる」

古武術の甲野善紀さん、
一時著作たくさん読んだのですが、
印象的だったのが
「構えると読まれる」(意訳)
という示唆で、
パンチでもキックでも大振りすると軌道読まれて避けやすい。
『ガンダム』の名シーンでグフを駆る歴戦の勇士ランバ・ラルが
アムロのガンダムを誉めてましたね、
「正確な射撃だ……
 が、それゆえにコンピュータには予測しやすい」
結局、
作為持って「こういう流れで」と思った瞬間、
読者に読まれて待ち構えられてしまう。
もちろん、吉本新喜劇のように
「それ」を待って観客も一体になってワーッと盛り上がる、
という芸というかエンタメもあるんですけど、
それはメタな話というか「作品としてどうか」という話からは若干切り離して考えないとややこしくなるのでここは置いといて、
つまり
「あっ」
という驚き、の連続、がコンテンツに触れる楽しさの大きな部分を占めるのであれば、作為を持った瞬間、その驚きの可能性をだいぶ削ってしまう。
この情報化時代、
作り手も受け手もだいたいおんなじもん観てるんで、
ほんのちいさな予兆すら掴まえて、
「あああれですね」
みたいにどうしても思っちゃいます。

この3月で『おかあさんといっしょ』の『ガラピコぷ〜』が終わるそうなのですが、そりゃもうガラピコの星から調査隊かなんか来てガラピコ見つかって、しかも実は王子様的な絶対に帰らざるを得ない人で、母星に帰るしかなくて、みんなで大騒ぎして涙のお別れしたあと、ちょっとして外交使節として戻ってくるんですよまちがいない。

その「飽きさせない」という恩恵以外にも、
・自由が確保できるので作ってて楽しいし楽
とか、結局普遍的なおもしろさはパターンがあるので、
そこからの脱却は必然的に独自性を喪わせない効果があります。
・独自性、ユニークである
というのは創作物にとって極めて重要で、
というよりそれさえあれば他は要らないとさえ言える重要な要素なので、
それを阻害しない、
しらずに阻害することを予防できる、
というだけでも大きい。

やり方、システムをなぜ導入したいかといえば、
楽をしたいとか効率化したい、の他に
「そのシステムによってブースト(ドーピング)したい」
という欲があると思うのですが、
実はこれは本質的に間違っていて、
効率が上がってもピークパフォーマンスは上がりません。
で、
創作で特に必要なのは一瞬のピークパフォーマンス、
一言の決め台詞
一コマの絵
耳に残るワンフレーズ
であって、それがないものを何百何千何万と量産しても
なんの意味もない。
ここの勘違いがこの30年間坂道を転げ落ちる日本の元凶じゃないかと思ったりもするのですが、それはさておき。
断捨離がこんまりが流行ってやってみた方も多いかと思いますが、
そんなに幸せにはなりませんでしょう?
あたりまえですよね、
日常を効率化して空いた時間をエネルギーを、
「使う先」
が何より重要で、それがないなら浮いたそれらを
twitterやtiktokで空費するだけです。
なので、
こと創作に関してはそういうものは無い、
というか、
要らない。
もしあったとしても。

……というようなことで、
作為を放棄して、
「描けるように描く」
強いて言えば
「描くべきものだけを描く」
という点のみに作為を発揮する、
あるいはそういう姿勢を保つことを作為と呼ぶ、
というような態度で
しばらくやってみようかな、
と思う所存であります。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記