今朝もまた、身も蓋もない話をします。
拙者御存知の通り「身も蓋もない話」が大好きで、言い換えれば真理を一言で突いている話。
高校生の頃、深夜TV『モーレツ!科学教室』にて、UCLAで当時話題の新素材「ファイン・セラミック」の研究をしていた華やかな生活を捨て、帰国して実家の喫茶店のマスターになったトンチ博士が、ポンチくんに「なぜ帰ってきたんですか」と問われて答え、
「ポンチくん……
セラミックは、割れるんだ」
当時TVの前で「あーっ!」とか叫んでリアルに膝を打ちました。ホントに打つもんですねホントに「なるほど」すると。
セラミックさえあればなんでも解決、鉄の代わりもアルミの代わりも木の代わりもなんでもできる、しかも型に入れたケイ素焼くだけだから枯れた技術で安くて簡単!と言われてたんですが、確かに割れちゃうとミッション・クリティカルな部分(たとえば自動車用エンジン)では使えませんよね。そうなると使用用途は思いの外限られる……といっても、いま新築の家の外壁なんか焼き物パネル一辺倒、おかげで外壁のメンテコストがだいぶ減ってるそうですから、当時の研究者たちの奮闘は報われているのでしょう。
「回心」ってことが稀に起こります。
本来は宗教的な帰依、神の実存なり仏の偏在なりが実感として得られて、心の底からそれを信じるようになる、という意味ですが、要はそれ
「ガラッとものの見方が変わる」
ということなので(無理くり)そういうこと一般の話だと思ってください。
これがなぜ・どうやって起きるのかを研究しているのですが、「なぜ」は置いといて「どうやって」の一つには、上記の例のように、
「『つまり』の一言」
みたいなものを見つける、というのがあります。
割れるものを(もちろん金属も割れますが、割れやすいという意味で)エンジンに使いたがる人は居ませんから、性能とか実現可能性とか考えるだけ無駄です。
私はこの「つまり」が大好きで、そんなに関係ないことでも一生懸命調べたり考えたりしてしまいます。でもなかなかわかんないことがほとんどです。
あるいは宗教家の場合、「修行」というシステムを通じて、けっこう無理矢理に、それこそ身体的・精神的なストレスや危機的状況を通じて意識を朦朧とさせ、幻覚幻視幻聴みたいなものを呼び込んでまでそれを起こそうとしますね。大変ですね。
いずれにしてもそれはなかなか難しく、
「そうか!」
という瞬間はなかなか稀です。
その一瞬は輝いて見えても、3日も経てばまったく今までと同じ見方しかできなくなってて、「あの悦びはなんだったんだ」と自分に呆れることも、僕の場合10度や20度ではないです。
つらいなあ(笑)
でもまあ、おそらくですけど、春の日和のようにふわふわで生きているとそういうことは起きないのではないか、と思います。
なぜなら、起こす意味も起きる意味もないから。
しあわせですもんね、すでに。
僕は、自意識的には、大変しあわせな子供時代を送れた……と思い込んでいるのですが、それでもこういう「回心」に対する渇望みたいなものがあって、そのくせ飛び込んでいく度胸と熱意はそれほど無くて=いつも醒めてて、なんでそうなんかな、と考えることがあるのですが、これつまり人間という種が持つ、「進化」への駆動力なんじゃないかな、と。
他の動物なり植物なりは、生存のための本能なり欲望なりで進化へのドライブが掛かるのだろうと思いますが、人間は(おそらく)大脳の支配範囲がでかいので、そこにあらかじめ、
「ものの見方を変えよ」
「そのための努力をせよ」
というプログラム、いわば「自己回心エンジン」が書き込まれてて、それに突き動かされるようになってるのかなあ……とか。
もちろん、僕の場合に限れば、「しあわせだった」という記憶を自分で捏造したくなるほどつらい幼少期を送ってて、それが抑圧されてて、そこがドライブしてる、という可能性もそりゃゼロではないと思うんですが、自分でそれを認知する能力はないし、する気もない。
となると、まあそういう、
「人間にはもともとそういうエンジンがある」
という考え方になります。もちろん、人によって強い・弱い、さらにはある・ないという差はあるのでしょうけれども。
「なぜこんなに
『つまりなんやねん』
を探すことに躍起になるのか俺よ」
という疑問に対する、いまの私の答え。
でも、あとパズルと一緒で、解けた時の
「あーっ!」
がキモチイイから、という身も蓋もない理由の可能性はすごくあります(笑)
2022年04月02日
マヨネーズ
以下はFantiaに投稿したテキストです。
こちらにもコピーしておきます。
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もちろん、接続してるかどうかは気にしないという手もある。
前回書いてしばらくウツラウツラ
(子守しながら天井見上げて考えるのにいいネタです)
考えてましたら、
やっぱり、
「接続の工夫」方向を攻めるのはなかなか難しいのかなあ……
とか!
あーっ!
ちゃぶ台がー!
「コミュニケーションは受け手がする」(byドラッカー)
という点をピュアに信じるなら、
送り手には工夫もへちゃらも無いですよね。
オーディオ、という沼がありますが、あそこ沈んでる人とまだ足元ちゃぷちゃぷ言わせてる人の違いは、ケーブルだと思います。
まあ百歩譲って電源ラインやスピーカーケーブルはアナログ要素もあるので、あるかもないかも、とも思いますが、デジタル系の伝送ケーブルまで「違う!」と言われだすとどうにも反応しようがない。
でも彼ら彼女らには間違いなく感じてる「事実」で、それつまり彼ら彼女らが「違う」といえばそれは「違う」んです。「客観的な」とかそういうことは関係ない。
耳、聴覚というのは五感の中でも特にそれ──脳による補正──が強力らしいです。
というような現象というか「事実」を引っ張ってくると、だいたいどんな作品でも受け手が好きなように、感じるままに受け取るのであって、そもその「受け取り方」なんて送り手にはどうにもならない。
ラーメン、「こう喰え」って締め付けてくる店ありますけど、そう言われたからって店側がイメージしてる味にはならない。
当然ですわね。
そう考えてくると、
むしろそういう方面ぜんぶ捨てちゃって、
「つくりたいようにつくる」
っていうのが結局は一番ピュアで、
その結果としてむしろスッと通る、
なんてことが起きるのかも?
『伝え方が9割』
という書名を書店で見かけましたが、
もしそうなら、
「伝え方」を諦めれば、
9割も労力・リソースを削れるってことですよね(笑)
その9割使ってブツそのものを向上させる努力をした方が、結果として良くないッスか。
ものすごいシャレオツなCMやってるTVと、同サイズで店頭で観て画質差わからなくて9割引きの知らんTV、どっち買います?
微妙かな(笑)
スマホだとそれに近い問いありますね、最近半導体不足でボトムが上がりましたけど、こないだまでRedmi9Tが13400円とかで売ってて、ちょうど最新iPhoneのMax盛りの10分の1とかです。
やれることほとんど変わんないです。
どっちがいいってことじゃなくて、どっちでもいいというか。
もちろん、例えば文章なら誤字脱字を無くす、とか、適切な句読点、とか、そういう「伝え方」は簡単に向上できるのでやっておけばいいでしょう。しかし、例えば構成とか章立てとか、創作なら場面ごとの起伏みたいなものでさえ、実は書き手が思ってるほど機能していないのではないか。
でも、それを言っちゃあおしめぇよ、というか、
「ほな(よりよい作品を生むには)どうすんねん!」
という疑問が次に湧きます。
ですがその、
「よりよい」
っていうのがそもそも幻で、当人は「よりよくなった」と思い込んでるけど、受け手からすれば全然そうでもなかったりもします。
デビュー作が最高……という人はさすがに少ないにしても、ガッと人気が出た初期作がキャリアベスト、という人はかなり多い印象です。
荒木飛呂彦先生の『ジョジョ』で何部が好きですか、と問われるとだいたい1〜3部で、まれに『バオー来訪者』と答えるバカが居る、という感じでしょう?
おじいちゃーん!
「小説という表現形式のたのもしさは、マヨネーズをつくるほどの厳密さもないことである」(by司馬遼太郎)
これ『坂の上の雲』のあとがきなので聞かれたこともあるかと思いますが、司馬先生いつもこの「マヨネーズ」を使って、
「小説に失敗なんてないよ、
作者の満足度に違いはあるけど」
とおっしゃるのです。
ちょっと牽強付会かもしれませんが、なにか伝えたいことや描写したいことがあった時に、「正解」はもちろん無くて、その時の作者が良かれと思う描き方をすれば、それでOKなんだ、と。
多くの作者が
「もうすこしうまくできないか、うまく伝えられないか」
ともう節々で悶えまくるわけですが、それは実はあまり……なんと言うんでしょう、効果はない、あるいは、意味はない。
司馬先生の全盛期のめちゃくちゃな生産能力、文字通り桁違いのそれを見ると、確かになんかちょっとでもそういう「悶え」をやってたら到底間に合わないようなペースなので、もう、
「書いたら終わり」
ぐらいの勢いでやってたはずです。
で、どれもこれもがベストセラー。
それをもちろん「天才」っていう言葉で片付けるのは簡単なんですが(事実、海音寺潮五郎先生が賞レースの審査員として「(他の審査員は)なんでわからんのだあの天才を」と言った)
むしろ天才性があるとするならその、
「どんなふうに書いてもあんま変わらんで」
という点を早いうちから見出したところ、にあるのかもしれません。
そして他の審査員の先生方、が無意識的に目を瞑ろうとしたのは、
「もしそういうやり方が成立するなら、
『小説家』というプロが成立しなくなるのではないか」
という恐れからかもしれません。
ほんの数年前まで、芸人さんたちがYouTuberを黙殺したように。
でもその後の流れとしてはご存知のように、実績ある芸人さん(で動画向きの芸風の人)がYouTubeやり始めるとガンガン再生回数回るわけで、つまりそこ(舞台技術みたいなもの)は価値(おもしろさ)の源泉ではあんまりなかった、下支えする技術ではあるけど、ということが明らかになっただけのことです。
延々と「うまいことやる方法」を考えてきたつもりなんですが、
「無い」
っていうのはなかなか証明できないので、もし本当は無いとしても、探し続けてしまうわけですね。
でもそれこそ20年とか時間費やしてまだ見つからないなら、もう探索を止めて手持ちのリソースをありったけブチ込むことだけ考えて生産し続けた方がいいかなあ、と思う昨今です。
あるいはちょっとケムに巻く言い方するなら、
「うまいことやろうとしない、
のが一番うまいことやるやり方」
とかね。
伝え方っていうけど、やってほしいことややってほしくないことを3点箇条書きで書くのがおそらく一番ですよね。そうすると角が立つからいろいろこね回して台無しにするんですけど、角立っていいなら伝わるのは伝わる。
つまり「伝え方」って言ってるのは嘘もしくは欺瞞もしくは両方で、
「動かし方」
でしょう? そう言うとがぜん難易度上がるのがわかりますよね。だからそう言ってないだけで。
小説でも音楽でも絵でもなんでも、別に動いてもらいたいわけではないので──そりゃ心が動いたらもちろん嬉しいですけど──そこを捨てるなら、すなわち、「感動して欲しい」という欲を打ち捨てるなら……ほんとにマヨネーズよりも自由に作っていいんじゃないですかね。
ベストセラー『嫌われる勇気』にアドラー心理学の考え方で、
「人の悩みは人間関係が9割」
みたいな話が書いてあって(ちょっとうろ覚え)
「伝え方」っていうのは人間関係の問題ですから、
「人を動かそうとしない」
と決めれば0.9かける0.9で0.81、
つまり80%も人生が楽になりますよ。
2歳9ヶ月を日がな一日相手してますと、確かに、
「こうしてほしい」
と思わなければ、8割ぐらい楽になります。
物理的に危険な行為を止めればいいだけなので。
「いちごだけ食べずに白米食べてほしい」「動画そんなに近くで観ないでほしい」「階段はだっこさせずに自分で登ってほしい」「スプーンは使えるんだから使ってほしい」……
山のようにある「ほしい」を止めれば。
なかなか止められないんですけどね(笑)
つまりこれもちょっとメタな話で、
「そうすれば簡単なんだけど、
そうできない・そうしたくないもんなんだよ、
人間は」
というもので、だからさらっとできちゃう人は天才と呼ばれるんでしょうね。どんな面でも。経営とかスポーツとかでも、なんかそういうところがあって、そこブッチできる人が他に対して8割増しみたいなパフォーマンス出して周りびっくりする。
……とか言ってるとこっちはこっちで大変そうだなおい。
まとにかくそのー……
「『うまいこととやろう』とはしないでおこう、
というやり方」
はある、という程度のことは言える、と思います。
でそれがあまり話題に上らないのは、それで成功した例が少ない(ように見える)のと、あと
「これがうまいやり方ですよ!」
というのがすごくお金になるから、でしょうね。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記