2016年08月25日

本『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである』 安冨歩




 ”何かをした結果、感じてしまうものではない。もともと自己嫌悪があるから、自己嫌悪を感じるのだ。”

 我らが安冨歩が「自己嫌悪」を離れ「自愛」に至る道を指し示す。


 自慢でもないですが僕は自己肯定感のわりとある方でして──まあweb日記なんてもんを臆面もなく本名で十何年もやってる時点でお察しですが──「自己嫌悪」とは縁遠いもんだと思っていました。
 実際本書を読んでましても「いやいやそこまでは」とちょっと離れた感じで眺めていられたのです、
 が。

 言葉というのは微妙なもので、読後2週間ぐらいして「あ」と思い出したのが、ちょっとした「罪悪感」なら僕にもある。
 なにかすごく楽しい体験をしている最中、
「ぼくはこんな楽しい思いをしていいんだろうか?」
と疑問に感じることがあるのです。
 美味しい焼肉を食べる、ぐらいのことでも。もちろん自分の稼いだお金で、仕事が空いた時期に、気の置けない友人と、の場でです。いやむしろそういう余裕ある時に楽しいことをすればするほど、そう感じてしまう。

 先生が感じた「死ぬか生きるか」というような自己嫌悪に比べればだいぶマイルドですが、これも「これでいいのか?」=不安という意味では同じ、考えてみればケッタイな感覚です。客観的に見れば誰に後ろ指さされるようなこともないのに、肝心の自分自身の心が曇っている。

 育てられ方、性格、社会(世間)の継続的プレッシャー、考えられる原因はいくつかありますが、僕の場合は幼稚園からつまり小学校入試から、「受験勉強」というのをさせられたのが大きかったのかな、と思います。
 ご存知の通り、あれには終わりも区切りも(本番まで)無いので、「ここまでやったから遊んでよい」という保証みたいなものがありません。おそらく生来小心者の僕は「勉強をしていない時間」には常に「遊んでいていいのだろうか?」という怯えに囚われるようになった。
 休息と遊びは違う。人間は24時間3交替、現場>休息>準備(遊び)>……のサイクルで回っています。現場>休息>現場>……では、心身が持たない。その持たなさが僕の場合は鼻炎の発作や身体の弱さに出て、たまに寝込んで完全オフ。

 幸か不幸か近頃はノープレッシャーなものですから、心身すこぶる快調でございます。むしろ追われなくなって初めて、「ああ、追われていたのかな」と振り返ることができた。
 また、今までは「助け」になってたものがいつのまにか「縛り」になってることだってある。本書もそうですし最近「親の呪縛(からの逃走)」が主題の本をよく見かけるようになりましたが、だいじだと思い込んでいる(思い込まされている)ものこそ、重い呪縛かもしれない。
 その人の状況も環境も日々変わりますしね。

 この本を読めばあなたも、あなたを縛っている「なにか」、自己嫌悪とその原因にはたと思い至り、そこから距離を取り自由を取り戻すことができるかもしれません。
 スペック・シート上はなんの問題もない幸福な日々を送っているはずなのに、なんだか最近ワクワクしない。微妙に重苦しい、息苦しい。
 そんなあなたはとりあえず書店で、目次だけでも目を通されるとよろしかろうと思います。平易な文体で丁寧に書かれていますので、年齢層も問いません。しかし、中身はとても深い。いままで「そんなものだ」とスルーし続けてきたことに、ポーンと小石が投げられる。

 ・なぜ「憧れること」が問題なのか?
 ・意味のない仕事をふられたら?
 ・身体の感覚を取り戻すには?
 ・魔法って何?

 この本と対になっている『生きる技法』も名作です。
”自立とは依存することである”
 また、ご自身の経緯を描いた『ありのままの私』は具体的なだけにより印象的です。



 社会が求める「こういう人になる」を自分にも他人にも押し付けてきたのが近代です。現代の難しいところは、それはすでに必要ない・意味のない・むしろ有害かもしれない「かたち」なのに、まだ大手を振って流通しつつ、権威や意味があるかのような顔をしている。(若干それが通用する世界も残ってはいる)
 僕みたいなちゃらんぽらんにさえその重さがのしかかってたわけですから、どなたにでも、実は、「自己嫌悪」が多かれ少なかれあるように思います。

posted by ながたさん at 09:52|