2016年10月21日

10/20


●映画『君の名は。』監督:新海誠
http://www.kiminona.com/index.html

 けっこう前に観に行ってたのですが、「なぜ」を解くのに時間が掛かりました。いまでもスッキリはしてません。
(若干ネタバレあり)


 まず先日も申しましたとおり、2002年に『ほしのこえ』ショックを浴びた作り手方面の人間は「新海誠」に対してほぼ無条件降伏状態であり、否定的なことは言えません。
 だってそうでしょうこの人25分のアニメを一人で作るんですよ。
 できますか? できないでしょう? 自分できないことできる人はリスペクトしなきゃ。
 しかも一発じゃない、その後もコツコツ・コツコツと作り続けておられてね。
 なので、そういう人が新作作って当たってる、というだけで「ああ、よかったですねえ……」と言祝ぎモードで観に行くわけです。庵野秀明『シン・ゴジラ』にでも噛み付く狂犬共がおとなしいのは、そういうことなんですよ。

 という前提で。
 モノとしてはしっかりディテールまで詰められてて、解像度が最初から終わりまで密な感じでたいへん良いです。これがアニメ畑を順調に歩いてきた方だと、メリハリという名のコスト意識がちらついて、良くも悪くも抜けるとこは抜いてあるわけですが、そういうのが無い分、とても見やすい。(手抜き=記号化・抽象化されると無意識でもその変換に脳使ってるから疲れるみたい)
 審美的に、つまりただ単純に、絵が美しい、のは言わずもがな。新海節、節じゃないな、なんといえばいいのかな、あの空と光とは「必殺技」と言うべきもので、あれが舞ってるだけで料金分の価値がある。

 キャラはちょっと薄いんですが、まあ「話がややこしいのでこのぐらいにしました」と言われれば納得のレベル。お話の方も、タイム・パラドックスが絡むと結局なにをどう考えても「よくわからない」という結論になるので、良いと思います。ほか、細かいところでツッコミどころが無いわけではないですが、上述のようにピッチリ充実詰まってる感でカヴァーできてる、と僕は思いました。

 とにかくフィジカルは抜群だ。
 そして作品は9割がフィジカルだ。
 大谷翔平の165km/hを見よ。球場全体がいや日本中が勝負・勝敗それどころかクライマックスシリーズの行方すら忘れてウットリ見惚れるではないですか。

 つまり恋愛映画としてカップルで観に行ったりしていいかんじになれるたいへん優れた映画で、その点では文句なし。

 ……と、ここまでなら観た直後すぐに書ける感想なのですが、問題はここから。「なんでこれこんなウケてんだ?」

 そんなもん考えるだけ無駄、見よピコ太郎さんを、と言われればそれもそう、なんですが、ちょっと考えてみた。

 この話のキモは、別離がただの別離ではなく「存在(体験)ごと無かったことになる」という点です。
 オタク趣味の最左翼(右翼?)に、この「存在ごと無かったことになる」テーマは実はだいぶ前から綿々とあって、たとえばPCゲームの『ONE』とか。

 自分が無くなっていく、世界が自分が居なかった世界になっていく、この戸惑い、焦り、恐れ、虚しさ、それに対応して「あれ?」と誰かが思ってくれた時の喜び、帰ってこれた時の爆発的な「ここに、いる!」という多幸感。

 これがお好きな方にはたまらないご馳走なんです。だから手を変え品を変えずっとある。説明もなく「世界はそうなってる」というものから、ファンタジーで色付けしたもの、SF的に多重世界もの……というかタイム・パラドックスものだって、広く言えばそうですね。そう捉えれば古典とも言える。

 ところが僕個人的に、この手前の「別離の哀しさ」まではもちろん理解も共感もできるのですが、この「存在ごと消える」ということにはどうにもノッていけない。
 僕だけではなくて、このノリに直接ノッていける人の割合って、たぶん5%とかそんなもんじゃないかと思うんです。なんの根拠もない数字ですけど。
 だって、その体験そのものは実体験できないわけですから、思考実験みたいなもので、抽象的な記号操作の末に発現する(であろう)感情ではないですか。もちろん全人類誰にとっても未体験のはずで、三途の川の向こう側より体験した人は居ない。
 そこへノれ、と言われても。
 もちろんそこで「未体験だからこそ、想像の産物だからこそ、クラクラくるのだ」と言われれば「そうですか」と返すしか無いのですが。

 ただし、それを生で出すとこのように「ノれる人が少ない」というのはこんな大きなプロジェクトでいろんなスタッフに反応の聞いて回ればわかることなので、この作品ではそこを相当丁寧に、普通の「別離」とシームレスに繋がるような感じで、「別離のすごいやつ」風に仕立ててある。
 本来は「別離」と「存在の忘却(消去)」はまったく質的に別物ですから、シームレスに繋がるはずなんか無いんですけど、それっぽく見せて、とりあえず口に入れやすくはしてある。

 さてここから鑑賞者の環境の話。
 我々世代(団塊Jr.だ)ですらそうですが、主力ターゲットになる30代はもうケータイネイティブ育ちSNS漬けですから、「繋がらない」こそが本当の別離。我々の卒業とか引っ越しとか振った振られたなんて、たぶん比較にならんレベルです。facebook眺めてたら元カノ元カレが「知り合いですか?」って出てくるご時世ですからねえ。
 作中で日記帳アプリみたいなのが活躍するのですが、あの履歴が徐々に消えていくビジュアル、あれを観て「ああこれは大変なことだ」といまや映画館のほとんどの人が痛感する。

 ちょうどここ、「消える」という点で、本来の「存在の忘却」がわかりやすく降りてくるところと、SNSネイティブな人が「痕跡が消えていく」絵を見せられてグッと来る、で上がってきたところが、交差する。
 厳密に言えばその二つは違うので、同じ絵を観て5%の人が前者を、残りの人が後者を感じてるんじゃないかと思うんですけど、とにもかくにも「ああこりゃ大変だ」感は作者と鑑賞者の間に共有される。で、大変になったら悲しくて泣き、そこを突破してうまく行ったら嬉しくて泣く。

 てことなのかなあ、と。
 うまく説明できてますかね?
 つまりこう、意図的かどうかは別にして、本来描きたいものとちょっと違うものを受け取った人がたくさん居て、だからこそ大当たりなのかな、と思ったんです。それが悪いとか、そういうことはないですけど。
 いや、もちろん、僕が理解できてないだけで、今は世の多くの人が「存在ごと無かったことにされる」ということに非常な恐怖心をお持ちなのかもしれません。いろんな事件や嘘や暴言、憲法や天皇のお言葉すら無かったことにされるご時世ですから。

 新海監督は作家としてはおそらくこれ(「存在のすれ違い」)をやりたいのでしょうから、大きなお世話ですが「次」はわりと大変で、
「同じのを続ける」のもツッパリとしてはカッコいいと思いますし、
「ガワは換える」ならもう何個か当てられそうですが、その場合はちょっと巧い脚本家と組んだ方がいいと思う。前述のようにキャラとかが「悪い」ではなくて「ちょっと弱い」ので、言うなれば中華料理屋のマンゴープリンみたいなもんで、そこはパティシエに頼めばええんちゃうかと。いやまあ、「そこは一人でやるんだ」に価値を置くのもアリですが。
 もちろん、「やりたいことやれたんでもう作りません」というのもRockでいいと思います。いまはもう別にずっと同じことやらなあかん、て時代じゃないですしね。

 そんな感じ。
 一緒に行った彼氏か彼女が怪訝な顔して「これどこで泣くの」みたいな顔してたら、バルでマッシュルームのアヒージョなどつつきながら、
「存在を忘れられるというのは最悪の別れでしょうが」
「忘れてんだから何も感じないだろ」
と水掛け論でもして瀧と三葉のようにイチャついてください。
 小難しいこと言いましたが、「若い二人のラブ・ストーリー」ってとこまでおおぐくりにして見れば、間違いなく傑作だと思います。

posted by ながたさん at 09:17| コンテンツ