2017年10月19日

本「だめだし日本語論」橋本治 橋爪大三郎




 知らないこといっぱい書いてあっておもしろかったです。
 橋本先生は凄いなあ。

 でも終盤、思わぬところで日本における(近代の)相克を目の当たりにします。

 橋本さんは作家・評論家、橋爪さんは学者(社会学)。橋本さんは使う者として内側から見る、橋爪さんは研究対象として突き放して見る、という違う視点が交錯するところがおもしろい本(対談)です。
 突き詰めて言ってしまえば、使う方としてはぐちゃぐちゃしてる方がおもしろいし、自由度が高くて遊びやすい。研究する方としてはモデル化しにくいのでイライラする。

 たとえば、漢字の熟語としてパッケージされてしまうと、本質を理解していなくても使うことはできる。「自由」とか「民主主義」とか、「愛」とかもそうですね。これ表音文字並べるタイプの言語だ(おそらく漢字導入前のことばだと)といったい何かさっぱりわからないので使う方も躊躇する。しかしその「使うことが(は)できる」というのが、わけもわからずそれを振り回すというおかしなことにつながっているのではないか……
 ことばに限らず概念そのものとしても、つまり中国やオランダや西洋から入ってきたものをですね、ロクに理解もせず肚にも落ちてないくせにPDCAサイクルを回すわけです日本人はね。
 おかしいやないか、と学者は言う。
 しかしそのおかげで今があるのだし、それはそういうものだとして受け入れるしかなかろう、その上でその利益/おもしろさを享受すればよいと作家は言う。

 表(公式)と裏(ホンネ)の二重構造がそこいら中にあって見通しが立ちにくいのが日本の社会の特質であって、それは普段はむしろいろいろ物事が円滑に回る長所なのですが、たまに裏側が腐っててある日突然崩れる。表はきれいなので問題は無いことになっているから、みんなビックリするわけですが、実は以前からグズグズやってた、と後で知る。
 というのが、公式文書(漢文)と非公式文書(ひらがな/仮名漢字混じり)の頃からすでに始まってて、そういう社会だからそういう言葉の構造を受け入れやすかったのか、逆に、そういう言葉の構造を取ってしまったが故に社会がそうなってしまったのか、因果はわかりませんが、まるで写し絵になっている。
 権威と権力を分離する天皇制というシステムが延々続いてるわけですから、元々そういう社会だったのかもしれませんねえ。

「あーもーイライラする!」
と頭を掻き毟る橋爪さん自身、朝鮮王朝のハングル導入については「大失敗」と断じており、曖昧さとそれに起因する効率の悪さは、多様性・寛容さ・楽しさとトレードオフです。そういう「ゆるい」社会は油断できず、安全を突き詰めることもできず、だいたい不便で、不快なこともより多く発生するわけですが、まあそれでも、そっちの方が「まだマシ」なんじゃないかなあ、と、日本語がぜんぜん聞こえてこない木曜夜の心斎橋筋を、小5からの友人と歩くこの本を読んだ次の日の夜です。

posted by 犀角 at 00:00|