2017年10月31日

本「読んでいない本について堂々と語る方法」ピエール・バイヤール




 タイトルからして挑発的ですが、もちろんただのジョーク本や逆張り炎上商法本だったら、天下のちくま学芸に入りません。結論としては、
「すべての本は媒介物にすぎず、
 それをキッカケとして内なる自分を語るのだ」
 素晴らしい。
 ウィトゲンシュタイン曰く
「語りえぬものについては沈黙せねばならない」
 孔子曰く
「怪力乱神を語らず」
 ではそれを誰が語るのか。
 それは貴方だ。

 まず
「『本を読んだ』ってどういう状態を指すの?」
というところから洗い直し、
「どういう状況で『語る』の?」
と「本を語る」ことの意味を確認し、最後に
「どう語ればいいか」
を導き出す。
 具体的な有名作家や作品の例を豊富に引きつつ丁寧に積み上げていくのですが、ちゃんと「読んでない本を語る」形になっているところがメタ的でおもしろい。
 よく見れば、作者が誇張気味にこってり「そういう人」を演じているのですが。フランス人らしい斜め目線というかヒネリ具合というか。

 そうつまり、いままさに僕はこの本について語っているわけですが、僕の読んだ「この本」は、いまこれをお読みの貴方が読む(読んだ)「この本」とは別のものなのです。自分の解釈能力以上の読み方はできませんし、その本から何を汲み取るか、その本に何を触発されるか、は人それぞれ違うから。
 それを社会全体に拡張すると、「この本」には社会がだいたいコンセンサスとして思っている「こういう本」というイメージがあるわけですが、それは脆く、また変化しやすく、またし続ける。その教養空間全体に置ける位置づけも刻一刻変わっていく。
 だもので、本を読む時にだいじなのは、中身もさることながら、その本とその読書体験そのものを、自分と社会(生活)との中でどう位置づけていくか、そこにある。

 言われてみれば確かに無意識で私たちは既にそうしています。
 バカ正直に書いてあることを鵜呑みにするのみならず、自分の都合のいいように解釈したり記憶したり、またアレンジしたりして人に伝えたり嘯いたりしている。
(もちろんこの文章もそう)
 内容が難しい本や解釈に自由度のある文学でなくても、たとえばライトノベルだって、主人公を自分に置き換えて妄想して楽しんで、それを二次創作同人誌に仕立て上げたりもしましょう?
 あらゆる作品は(単なる)触媒であり、創作とは自らが自らの内から引っ張り出す行為それそのものである。

 知らずに自然とやってたことをこう明確に言語化されると、
「わあこの人頭いいな!」
と感心しちゃいますね。

 もし良い作品そうでない作品という区別があるとするなら、触媒としての性能の良し悪しを指すかもしれません。
 だから作家自身にとって良い作品そうでない作品の区別は原理的にはつきません。作家にとって(納得の有無は別にして)「創作した」という事実はどの作品に置いても同じなので。

 バルザック、漱石、ワイルドといった押しも押されぬエース級が口を揃えて「本なんか読まんでええ」と作品中で語り語らせているのを知り、いったん驚いて、いま上で書いたようなことを考えて、なるほどな、と頷きました。
 作家が誠実であればあるほど、己のそれも含めた「本」というものはキッカケに過ぎない、ということをこそ、つまりそれをキッカケにしてどうぞ貴方の想像を羽ばたかせて、と訴えたくなる、はずです。
 でもそういう作家の作品こそリアリティがあり真に迫り結果読者がのめり込み、読者自身の想像力=創造力を停止させてしまう、というこの矛盾。

 フローベルが『ボヴァリー夫人』を書く時に「なんでもないものを書く」と豪語したそうで、それは北杜夫先生『どくとるマンボウ』のあとがき、「どうでもいいものしか書かない」に通ずるなあ、と思い出しました。あるいは北先生はインテリサラブレッドだからそのぐらいのことはご存知だったのかも。

 どんなジャンルでも作為の見えるものは二流品ですが、そりゃそうで、上の原理に忠実であれば、内から湧いてくるものを表に現す、以外の意図や行為が混ざっていればそれは邪魔物、写さなくて良いセンサーにへばりついたゴミに過ぎません。むしろそれを丁寧に取り除く力とセンスと根気、このありなしが作家の力量。

 おもしろいです。
 読書家にこそ頭の整理におすすめ。
 あんまり本読まない方は別にいいです、普段あなたがやってることが言語化されてるだけなので。
posted by 犀角 at 21:33|