2018年01月23日

観る

●先日行きました「ジブリの立体構造物展」
http://rakken.sblo.jp/article/182191752.html

の図録(こちらは定価よりだいぶ高いですが↓、展覧会やジブリショップへ行く機会の無い方に)



を観つつちょうど最近考えていたことを記しときます。

●なにか作品と呼ばれるものを作るときには、
一般的にはアウトプットの方により意識が行くものです。
「なにを・どう作るか」
の後半に。
「なにを」はもうある、という前提で話が進む。
 もしくは確固としては無くとも、ぼんやりしたイメージを手を動かしているうちにカタチがあらわになってくるのだ、と。

 自分でも長いことさんざんいろいろやってきて最近、ここが「……そうかなあ?」と思うようになったんですね。
 その、「なにを」っていう方がうまいこと熟成されてないと、なんともならんのじゃないか。

 ところがこの先がうまく説明できない。
 アウトプットに対するインプットという言葉を使いますと、これがちょっと違う。
 料理で例えると「いい素材を使えば美味い料理が」とわかりやすいですし、実際いいネタだったらたいていはおもしろくなります。
 実際昨今のベストセラー置き場を観ていると、ネタ合戦のケも無くはなくて、どれも帯のキャッチをひと目見た瞬間に「おっ、それはおもしろそうだ」という企画が凝らされている。
 それはそれでいいんです。
 ただそうじゃなくて、ごくふつうのもので何の何も起きないのにおもしろさが立ち上がってくるもの、というのはちゃんとあって、そこにおもしろさがあるならば、おもしろさの本当の源泉は「いい素材」「キャッチーな企画」などではない。

 強いて言葉にすると「視点」とか「目線」、
「あれっ? 世界ってこんな風に見えるのか?」
というあたりが、おもしろさというものを立ち上げる根っこの部分ではないかな、と。
 まあ芸の基本は観察(力)ですから、あたりまえといえばあたりまえなんですけど、観察という言葉を使うと「ものをそのままに観る」というイメージが強いではないですか。
 それはそもそも嘘で、観てる時点で自分流にしか見えてない。しかもその自分流というのが極端に怪しくて、ナマの感覚でふれているのではなくて、だいたい余計なことに大脳を経由してて当人もしくは社会に植え付けられた記憶や記録のパッケージに当てはめる作業をして認知する。
 一回一回認識をゼロから立ち上げていたら間違いなく死にますから、意識的に短時間でも「いつもの回路」を外せる・迂回できるようなメソッドを持つ(それにはおそらく訓練がかなり必要)、必要があるんでしょうね。

 よく「巧くなるな」と言われるのも、「巧い」というのは要するに「この時はこう」という認識パッケージを大量に持ってて即座に投入できる、というイメージですから、それって(似たようなものを量産する以外には)ほとんど意味の無い能力ですよね。マイルス・デイヴィスが「前のが聴きたかったらレコード聴いてよ」と言ったはずです。

 だから「観察力を鍛える」という考え方をしてる時点でわりとマズくて、観察力というのは、ものを観た時にその時その場ならではの一回だけの捉え方ができることだ、またそれを失わないことだ、と定義すれば、そんなもの鍛えようがない。観るという行為の前に、自分の中になんかいろんなもの入れておいて(感覚、感情、知識、体験、記憶などなど)、それが観る瞬間にどう作用するか、それはもう神のみぞ知る。

 料理のたとえでいくと「いい素材」というのは乱暴な言い方で、多くのものにそれに合った料理、というのがあるはずで、その何かを観た時に「うん、この大根は煮込みにいい」と感じられることが大切。「煮込みにいい大根」を探すのではなくて。

●作品というのは突き詰めて言えば
最大の売りは「ホカニナイ」という点であり、それを生み出すのは技巧が発揮されるアウトプット段階だけではなく、いま取り上げようとする対象を観る瞬間から、癖あるいは個性が無いといかんね、と。
 逆に言えばそこが「癖がすごい」とむしろアウトプットの方は標準的なもの・無個性なものでも十分ではないかな。

 わたし以前から
「アウトプットの方がそんな凝らんでもええんちゃうかな」
と思っており、それは自分の効率志向やめんどくさがりなとこから来てるのかな、とボンヤリ考えていましたが、無意識にこう思っていたのかもしれない、とムリクリ納得。
 ……いややはり面倒なだけかも。

●上述しましたが、わたしインプットというと
「素材を選ぶ」のが気になってましたが、と同時に「観る」ということがそもそも重要。
 家一軒絵に描くにしてもちゃんと観てないと「あれ? 建物と地面が接するところってどうなってたっけ?」「軒ってどれぐらい出てたっけ」「そもそも屋根勾配ってこんな感じか?」と何もわからないものです。
 絵の場合、とにかくスケッチ/デッサンから始まるわけですが、絵の訓練たるもの「観たものを描く」に集約されていて、サッカーの鳥カゴのごとく「とにかくこれだけやってりゃ最低限なんとかなる」というもの、なのかもしれません。
 そういえば文章の場合も好みの文章の「書き写し」は極めて効果的な訓練法です。
 回りくどいようですが一番おすすめ。
 文章の場合は書き写す時に時間と手間が掛かるので、その間に「なるほど、こう表現するのか」というようなところを「観て」いるのだと思います。

●それだけです。
 別にだから具体的にこうするああするという話は特になく。
 まあ、最初からおろそかにしない、ぐらいで。
posted by ながたさん at 00:00| 雑記