2018年05月07日
本「落語とは俺である。 立川談志唯一無二の講義録」立川談志
談志師匠は極めて評価が高い方なのですが、僕にはたまに映像で観る高座を拝見してもどこがどう良いのかわからない。「わからない」ものはモヤモヤするものですがそうこうしてるうちにお亡くなりになる。亡くなられてしまうと「あるいは現場ではオーラみたいなものが噴出しててそれに当てられるのか」というような仮説も検証できない。
でも幸いにしてこの本で、なんとなく、ですけど、モヤモヤがボンヤリ輪郭を持つ。
落語とは何か。
「人間まるごとの肯定」と定義すると、救われることも多い反面、普段慣れ親しんだ「常識」をもひっくり返さねばなりません。
というよりも、だいたい人々を苦しめる「抑圧」ってものはその「常識」の副産物みたいなものですから、抑圧の開放は常識の破壊(無視)とほとんどセットになっている。
ですがそれをすると商業電波(円盤その他)には載せられない。
だから多数にはリーチしない。
でも高座ではできる。
だからお弟子さん達は、そしてファン達は心酔もする。
「(こんな(人間の業を掘り起こして見せつけるような)芸をする人は)談志以外いねぇじゃねえか」とまで言い切れる。
なーるほど。
やっぱりなんでも疑問に思ったら現場行かんといけません。
しかしそれ(因業をも肯定する)はやはり修羅の道で、それができる人とそうでない人がいます。落語に限らず芸術全般で。
僕は、できる人のみを芸術家だとする考え方にはちょっと反対で、なぜなら常識を常識として肯定するだけでも人の心にはちゃんと浄化作用が働いて、元気にもなるし気分も晴れるから。
できる人、というのは一歩間違えれば自分もそちら側に転落する、というエッジのところで、しかしその一歩を踏み外さないように自分を空高くから俯瞰する視点を持つ人のことで、まあ天性ですわ。あとからなろうと思ってなれるもんでもないし、そうでない人がなろうとか思うようなもんでもないでしょうし。
どうしてもやってる者はそこにこだわりが生じて、がんばってギリギリ歩こうとかするんですけど、観てる者からするとアウトプット以外はあんまり興味ないところなので、まああまり考えすぎない方がいいですな。
観てる者はむしろその方がよく、自分の身体が勝手に「わはは」と反応してしまうものを「おもしろい」と言っていればいい、いや言うべき、だと思います。
この本に限らず、こういう本は読まない方がいいね。
別の角度から「俺である。」を野暮な言語化すると、なにか物を作るということはすなわち自分が感じたことや考えたことを表すという行為で、それは「俺」以外の何物にもなりません。むしろそれ以外の何かになってる方がおかしい。
というだけのことだと思います。聞いてる方が勝手に「談志だからまた偉そうに」と勘違いする。もちろん談志師匠はそれを折り込み済み。
posted by 犀角 at 17:27| 本