2019年12月31日
年末
毎年恒例「今年の採点」5点満点、今年は文句なく5点満点。
理由?
子どもの誕生!
わたし高2の頃、脚本書いたお芝居がありましてその名も『ヤマトタケルの大冒険』。主人公の決め台詞は「愛と勇気と正義があればやってできないことはない!」
いいですね若いってのは。
もちろんその当時でも、主人公の必要以上の熱血さと青臭さを強調する、芸人さんの決めフレーズみたいなノリだったんですが、書いてから「いやでもそれが真理だよな」と思って卒業アルバムの一言にも援用しました。
ああ恥ずかしい。
その後もずっとそれは真理だと思ってきたのですが、しかし、巷間よく言われることですが、愛と勇気はもちろん重要だとして、「正義」ってなんだと。それはあくまで相対的なもので、普遍的な価値ではないのではないか。それは言った人の思い込みで、そこからこそ摩擦・抑圧・そして暴力が発生するのではないか。云々。
ところが、めっけたんですよ普遍的な正義を。
子どもを生み・育み・守ることです。
あたりまえすぎて忘れてることですが、生き物というのは餌とりと繁殖活動がメーン・エベントで、あとは基本のんびりしているものです。
ということは、次世代の生産(生産言うな)と維持・発展は「なぜ」という問いが無意味な公理ではありませんか?
なんだこれが正義かと。
実際、子どものお世話してる時は一心不乱と言うか、何も考えずにできるものです。意味とか意義とか効率とかやりがいとか、そういうもの抜きに行うべきいやさ行ってしまうもので、充実感や達成感とはまた微妙に違う、「なすべきことをなした感」がすごくする。
これがやってみんと皆目わからんし、言葉ではなかなか伝えられない。
おそらく人によってこの感覚が発生する基準ラインが異なるんだと思います。他人の子どもでも起動する、保母保父さんや初等教育の先生、あるいは小児科医になるような人も居れば、まあ、あんまり想像したくないですけど、自分の子でも動かない人もたぶん居る。
僕はきわめてオーソドックスな人間ですので、フツーに我が子を目の前にして「ああこれか」と、よく言われる「君のためならこの命投げ出そう」の感覚を得たのです。
も余裕。
テロリストに銃口突きつけられて自分か息子か選べと言われたらノータイムで
「はいはいわたしわたし」
と諸手を挙げます。
こんな自分は想像つかんかったなぁ。
無理にロジックで攻めると、生命が途切れて集団が維持できなくなると意味も喪われるので、
「子育てをする意味はどこにあるのか」
という問いそのものがおかしくて、その意味を創出するために子育てをしてるので、子育てしなくなると意味がなくなるので、意味のことを問題にしたいのならば子育てするしかない。
(この場合の子育てというのは社会全体で子どもが育つことをサポート・アシストすること一般です。子どもが読むようなバカバカしいお話を書いたりするところまで含む)
逆に言うと、ここについて「これぞ正義」という感覚が持てない人は、すごい大変だなそれ、とも思います。宗教とか哲学とかマラソンとか、なんか別のものに頼る他ないんですかね。もちろん、意義とか意味とかとは独立に悩みは発生するので、それらが不要と言うわけではありませんが。
ということで、積年刺さってた喉の小骨がスッと胃に落ちて消化され、生きていく上でたいへんスッキリしました。
我が事のみならず、これを基準に考えると世の中非常にシンプルに観えてくるので、どなたにもおすすめです。
47にもなってやっとそんなことを理解しましたよ。
人間ずっと学習です。
死ぬ前にこういう感じに直面できてよかった。
この1年はそんな感じで、とても楽しかったです。
また来年も、もっと楽しくなりますように。
大晦日はまたいつもの旧友5人揃って呑んだくれます。高1から30年続く伝統行事です(笑)
みなさまもよいお年を。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記