2022年07月08日
するをつづける
以下はFantiaに投稿したテキストです。
こちらにもコピーしておきます。
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つづき。
アンカーをどこに置くか、ということを突き詰めて考えると、僕の場合はやっぱり一言で言うなら、
「愛」
かなあ、などと気恥ずかしくも無くなるんです50も超えると。逆に。
でも僕が若かりし頃はもっとこの言葉聞いたと思うんですけど、最近急に聞かなくなりましたね。90年代はまだみんな「愛があれば大丈夫」言うてましたよね。00年代は既に怪しい? 特にリーマン後? 3.11以降へ顕著ですよね。
やっぱりお金かなあ?
と、考えてみると、愛というものは、
・効率が悪い
経済的にも労力的にも時間的にも確率的にも。
・「じぶん」と相性が悪い
他者への関わりだから。
・「しぜん」と相性が悪い
意図するものだったり無理矢理だったり。努力やガッツとも似てる。
ということで、確かに高効率・自分探し・作為を減らせな10年代以降、いや大きく見ればバブル崩壊以降32年の、日本社会とは真逆ですね。これは右派左派・老若男女を問わず。
原因はいろいろあって複合的なんだと思います、環境がさらにストレスフルになったとか、戦後、あるいは長く見れば明治維新以降走り続けてきたからちょっと休みたいとか。なんやかやで、
「外向きに掴み取りに行く」
というアクションそのものがめっきり減りましたね。
そして愛ってのはそういうもんの最たるもの。
でもなんでもバランスなもので、内側ばかり深堀りしてても、状況が変化しない時もあります。ボカン・バカン・頭を打ちつつも何かをしていると、それによって何かが動いたりもする。
というよりも、効率が悪い、というのは稀に大当たりが出るかも?ということであり(そうかな?
じぶんをだいじにするなら、やっぱり後の自分が楽しく振り返れることや、若い日の自分が「いいな」と思えることを、やるほうがいいし。
作為を減らすつったって、生きてることは作為ですからねえ。
キャンプが流行ってますが、僕も昔いろいろ、素敵コテージ連れて行ってもらって朝中央市場で買ってきた海鮮焼きゴージャス今で言うグランピングさせてもらったり、逆にバイクで山奥のダムほとりでソロキャンとかもやったんですが、「どこまで不便を楽しむか」を自分で決められる、のがキャンプの醍醐味だったりします。火起こし一つにしても、摩擦熱からやるストイックなものからカセットコンロまで。どれも楽しいんですよね。どれが正解でもない。
だからまあ、わざとらしいと言われても、本人がそれがいいと思うのならそうすればいいと思います。たとえ本当に心のうちから湧き上がるもので無くても。同級生に医者が居て、彼の名言が、
「医者はイヤイヤやってても人の役に立つからなぁ」
これです。
僕が創作について言うなら、「これぞ」というベストワンでなくても、まあ読んだ誰かがちょっと「くすっ」としてくれたらそれでもう。ワンパターンでもありきたりでも完成度低くてもいいです。
愛があれば。
誰しもそういうアンカー(錨)が、愛でなくてもあって、それを支点に振り回されてると思うんですど、
──この仮定は間違ってますか?
──こういう人間観自体がおかしいですか?
まあ同じ振り回されるなら、
「こいつは何を支点に回ってるんだ?
……あぁー、『愛』な。まぁな。それならしょうがない」
みたいな感じになりますよね。
なりませんか。
金とか名誉とか、権力欲とか、そういうものよりは。
もちろんそこには自分勝手とか押し付けとか執着とか、「一歩踏み外すと」ば危険があるわけですが、それは行動する以上、なんだって同じですからね。
あ、積極性や主体性自体に対する「もういいよ」感、無力感や飽き、これが社会を覆っていると考えると、積極的に何もしない人・岸田首相はまさに時代と民衆の鏡。
「あいつ何もしてないやないか!」
という怒りもわかるんですが、前任者2人特に前前任者が
「全力で間違った方向へダッシュ」
だったから、アレに比べればマシだろう、という気持ちもわかる。
日銀にブタ積みされてる国債と当座預金、どうすんでしょうね。
余談。
こう考えてくると、まあ愛とか、自由とか、勇気とか思いやりとか冒険とかなんとかかんとか、そういう積極性や自主性がこれほど軽んじられている──いやーなんて言うんでしょうね、スルー? 冷笑とまではさすがにいかないかな、子供若者だった頃「エエことやで!」と教わったことが棄却されている、こういう時代は僕の半世紀の歴史の中で初めてなので、むしろこういう時にこそ逆張りもしくはアノマリー、個性にできるかもしれません。
とか、そういうスケベ心は別にして、エエことはエエことやと思いますので、せめて作品の中では、エエことがエエこととして流通している、ようにしていきたい、と思っています。
人生の悪い方のことはほっといても目や耳に入ってきます。自分に降り掛かってきたり、ニュースサイト開ければいくらでも。リアルな噂話の類も、悪い話の方がおもしろいですからね。だけど人生ってのはもちろん悪いことばかりじゃなくて、良いこともたくさんあります。あんまり悪い方に意識取られすぎないように、良いことの方も摂取した方がよくて、そのためにコンテンツって奴があるんやないやろか、と思ったりします。
自分自身も、不安な思春期に書籍にマンガにアニメにゲーム、そんなものにずいぶん助けられました。もしこういうものが無いSFみたいなディストピア・ワールドだったら、一体どんな辛い日々だったろうか、潰れてたかもしれない。なんといいますか、恩返し。兼、いま、鬱々している若人や子供たちが、すこしでも元気になってくれたらいいなあ、と、自身に子供できてようやく思います(笑)
こないだ幼稚園の体験保育に行きまして、平日昼間なので14組の中でパパは僕1人だったんですけど(がんばれニッポン)、3歳前後の子供たちがワーッとカオスしてると、「ええなぁ」とほんとうに思います。
自分のできることで、このちいさきひとびとに貢献できること何か、と思うと、「世の中にはええことがいっぱいあんねんで」と伝えてあげることぐらい。
同じようなこと言いますが、疲れからか貧困からか、
「継続的にエネルギーを掛けていかないといかないこと」
が全体的に忌避されている気がします。
上のいろいろだとか、そもそも学習だとか。
でもまあ、それら、
「じぶんで」「つかみとりにいく」「ええことだと信じるものを」
という行動は、その行動自体によって、自分にエネルギーが湧きます。
むしろそういうことをしないから、疲れてる。
中村哲さんの足跡みると異常なバイタリティなんですが、内からそういう無限のエネルギーが湧いていたんだと思います。
ランニングでも筋トレでも、やってる人元気じゃないですか。あれは元気な人がやっている、という面もありますが、やると元気出るんですよ。僕も走ってた時は活気あったなあ(膝痛めました
こういうのって歯磨きみたいなもんで、ちょっとめんどくさいんですけど、それやっとくと、もっとめんどくさいことにはならない。
継続的に、「する」ってことのだいじさ、というか、威力、があって、いいことであればあるほど、「する」を続けなければいけない、というか、いいことというのは、しつづけることまで含めて、いいことになっている。
愛、勇気、正義、学習、自由、努力、根性、鍛錬、修行……
日本国憲法12条
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
これでございますよ。
DO LOVING!
posted by 犀角 at 00:00| 雑記