2022年06月29日
万能電気鍋は無い
以下はFantiaに投稿したテキストです。
こちらにもコピーしておきます。
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先日のこれ(https://fantia.jp/posts/1337665)の補足的な。
たとえば軍事行動には、戦略・作戦・戦術というレイヤーがあります。
レイヤーというのは階層ですね。アニメのセル画を想像していただくと、背景の絵にキャラの絵を載せ、その上にさらに目とか鼻の絵を載せる。こうすると、目を閉じる時に目だけ違う絵を用意すればいい。逆に同じキャラを違う背景に載せるのも容易。
もちろんそれぞれの階層はお互いに強い関連があるわけですが、とりあえずレイヤー分けしてそれぞれの視点や解像度でモノを観て、あとで統合するとわかりやすいですね、と。
そのノリで行くと、創作活動を
「なんかモノを作る」
と考えると、
コンセプト・マネジメント・実現技術
と3レイヤーある。
で、このコンセプトっていうところはもう、その作者に固有のものですから、基本動かせない。(相当商業的にシステム化されたもの、たとえば大きな週刊雑誌の連載狙うマンガとかだと違うかもしれませんが……それも『ONE PIECE』や『進撃の巨人』、あるいはゲームで言うと『Fate』みたいに超大ヒットは「作者固有の」から生まれてるところを見ると、そこを捏ねて人為的に構築することが正解とも思えませんが、それは余談)
さらに一番下の実現技術の方も、たしかにあるラインまでは物理的な「ここまでは欲しいなぁ」みたいなものがないわけではないですが、それはサッカーでいうと1試合10km走る、みたいなもので、一応真剣に何年かやってれば身にはついてる程度のもので、そこで差別化する方が実は難しい。15km走れれば他に何もできなくてもリヴァプールでもRマドリーでも採ってくれると思いますが、人間には不可能ですね。
ということであるならば真ん中のレイヤー、マネジメントの部分で差がつくというか、ここの違いが作品の良し悪しというかインパクトというか影響力というか支配力というか存在感というか、そういうものに決定的な影響を与えるのだろう、と考えたわけです。
いやこんなに整然と言語化できてたわけじゃないんですが、コンピュータ・プログラミングで言えば、ミドルウェアというかライブラリというか、実コードをコツコツ書く前に、使いやすいライブラリがズラッと揃ってれば、それを揃える手間をマイナスしてもなお、生産力が上がる、に違いない、と。
そんなイメージで。
だからまあ、いろいろ考えたり、思いついたことを試したり、してみたんです。
でも結論としては、前回「注文住宅」を例にしましたが、結局の所、創作作品はひとつひとつの作品の「造りの違い」が大きすぎて、むかーしの大工さんがそうしていたように、現場合わせで材木切ったり貼ったり、金尺で測ってチラシの裏で寸法計算してコーナンPROに部材買いに行く、そういう方が結局手っ取り早い。
特にここ数年は
「そんなわけはない」
という信念というか執着というか、そういうものでへばりついていました。既にやれることやりつくしてて考えられること考え尽くしてて、「……無いなぁ」という気しかしないんですけど、「いや、あるはずだ」と。
そう思いながらもやる時間、というのはものすごい無駄なようですが、諦めが付く、というか振り返る必要は無くなる、という意味で必要なコストなのかもしれません。いや、わかんないな、これもそう思い込みたいだけかも。とにかくキツいので、なにかやってるフリをしたかっただけなのかもしれませんね。
でも思いません? どんな作業でも「もうちょっとうまいことできるやろ」みたいなことを。その感覚があるからこそ科学が技術が発達して人類は……
うーん。
まあうまくいかなかった理由をあまり突き詰めても、最後は「運」「タイミング」「相性」といった、自分ではどうにもならないところに帰着しちゃうことが多いので、しょうがないですかね。結婚就職転職進学あるいは転居に介護それから子育て、人生は自分ではどうにもなんないことだらけで、で、そういうことの方がだいじなことですね。いやだいじなことだから自分ではどうにもなんないのか?
見方を変えてみましょう。
注文住宅の例で言うと、「どんな家族がどんな生活を営むか(営みたいか)」によってディテールが変化するわけですよね。同じ敷地、同じ予算、同じ工務店でも、子供5人の3世帯9人キャンプ好きアクティブ一族と、インテリ熟年夫婦2人本に埋もれたい、では、できあがりの家何から何まで片っ端からまるで違うわけです。
つまり作品でいうと、おおもと、コア、これをどんなふうに捉えるか、で全部変わる。
ここまではいいですね。
で、ここからは文章作品の話になるんですけど、(たぶん作用範囲はけっこう広いと思うのですが、自分でそんな真剣にやってないのでなんとも)結局「なにかを形作ろう」とすると、
「2要素の引っ張り合い」
というのがたぶん基本になるんです。
恋愛噺ですとAさんとBさんが。
これほんの数年前なら「男と女が」と言ったもんですが今はこう。
ここの引っ張り合い、相克、矛盾、山あり谷あり、それらは緊張と緩和を伴い、つまりこれがいわゆるドラマ。
んでこの2要素ぶつける時に、最初のコアから見る。
同じ恋愛噺でも「愛がすべてさ」という主題設定と、「恋は一瞬の閃光」という主題設定では、作り変わってきますよね。
前者なら最終的には超えられるようないい塩梅の万力を用意するし、後者ならダイナマイトみたいなの仕込んどいて最後ドーン!と。
そのハードル設定こそ、まさに主題の裏面。主題を際立たせるハードルを用意するのが、まあ「上手さ」と言ってもいいのかも。
人間のハイジャンプで3mのハードル用意してもしょうがないですし、コースサイドに美味しそうな焼き鳥焼いてても「犬や無いんやから引っかかるか」という話になります。ちょうどいい感じで「あ、それ跳べるのか? 無理なのか?」とドキドキするような奴。
カラータイマーがピコンピコン言い出すと、時間制限のドキドキのみならず、「このひとはこんなに一生懸命僕らのために戦ってくれてるんだ!」というものすごい共感が沸きますね。あれはあくまであのひとが行きがかり上「この星の人達を守らねば」という主題があるからこそ、あの仕掛けと、それに対応して行動することに説得力が生まれる。あの仕掛けだけポンとあってもしょうがないし、そんなに一生懸命でない(あるいは時間にルーズな)ヒーローにあれが付いててもあんまり効果がない。
というふうに考えてきますと、「うまいやり方が無い」というのは言い過ぎで、上流(コンセプト)から下流(ディテール)まで同じ……なんと言いましょう、いまのところ仮に「主題」というよく使われるヤツ使ってきましたが、これあんまりピンとこない言葉なんですよね……特に日常生活で。
「価値観」とか?
それが流れている必要がある。
必要というか必然的に、か。
その統一的な価値観にフィットするやり方が、その作品(あるいは作者)にとっての「うまいやり方」であって、だからこそれは、その作品・作者によって違う、あるいは変わる。
BMWは最近、多くのモデルで豚ッ鼻ことキドニーグリルを際限なく大型化して賛否両論、デザインのためのデザインが嫌いな小生などは顔をしかめておるわけですが、あれ別にどうでもいいんですよあの会社にとっては。
なぜか。
B社の社是ご存知「フロイデ・アム・ファーレン」邦訳「駆け抜ける喜び」。デザインを含めたメカニズム全ては爽快な走りのためにあるので、何かが大きくても小さくても醜くても美しくても、BMWは揺らがないのです。もちろんファンもね。
そんな感じ。
余談ですが「ファーレン」は「運転」なので直訳すると「運転する喜び」、これを上のようにひねったのは『星の王子さま』ばりの名訳ですね。
まあ企業スローガンとかまで寄せちゃうとこれはまたこれで生々しいというか生臭いというか、そんな気もせんでもないですが、そこまでカチカチと言語化しなくても、作者がだいたい固有であまり変化しない価値観というのがあって、それを噴き出すのが作品、と捉えれば、その「価値観」に沿って仕掛けを考えたり、描写のフォーカスを置いたり、細かい表現を選んだり作ったり、そういうことをやっていけばいいのかなあ、と思います。
だいたいクリエイティブ系の学校等々の話で「ひとつ完成できない」というエピソードが出てきますが、それはおそらくこの価値観、言いたいこととかメッセージとか主題とか別名なんでもいいんですけど、このコアのところ無いんじゃないかなあ。
なんでもそうですが、一応でも「どうしようか」が無いと、とっちらかってどこへ進んでいいかわからなくなります。出かける時には「うまいもの食う」とか、それこそ「ブラブラ歩く」でも「普段通らない道通る」でもなんでもいいと思うんですが、それこそ自分が普段ポリシーとしてないこと、日常のムーブとは180度違うこと、でもいいかもしれませんというか、むしろ創作なんだからこそ、そういうの方が大暴れできてスカッとしていいかもしれませんね。
仮に置いたそれを、やってる間に変えていけばいいではないですか。BMWのも生まれたのは1972年、創立60年近く経ってからです。Appleの「Think different.」だって最初からじゃなくて、ジョブズ帰ってきてからですしね。
やり続けていると自分のことが多少わかる、という点で、創作活動はヒーリングになりますね。辛いようなら何かがおかしい。どこか変えた方がいい。
わちゃわちゃ言ってきましたが、いまんところそんな風に考えています。
あ、ひとついま気づいた、
すぐ上に書いたように、これねえ、やってるうちになんとなくこうかな?これかな?みたいににじり寄っていくもんなんですね。最初から「Think different.」と呟きながらガレージでApple1を作ってたわけではない。
だから、とてもとても、わかりにくいんでしょうね。
初心者の方に、講義みたいな形で教えられるかというと、無理だ。それで理解できるひとはたぶんもういっぱしのひとで、教えること何も無いわ。
技術的なことは価値観から導き出されるものなので、単独で教えても効果薄いし、さりとてここのところは、腑に落ちた瞬間免許皆伝なので教えることが無くなる(笑)
茶道とか華道とか、最近でいうとヨガとか、数年真面目にやった程度(程度言うと怒られますけど)で師範になるシステムがありますが、あれ本来はこういうことなのかなあ、と思ったりもします。
「あなたの価値観で、やればいいのよ」
という一言が腑に落ちれば、落ちてない人をアシストすることができる。それはすなわち師匠、メンターです。
宗教とかでもわりとそうよね。初等教育とかもそうか、「大卒すぐに教師になって、社会しらんで子供になんか教えられるんか」というのは間違いで、社会のこととは基本的に独立した「そこ」を教える、というかエンパワーするのが初等教育の教師の役目で、だからもし経験が必要と言うならむしろ、社会人経験よりサークル活動とか芸術とか選挙ボランティアとかバンドやるとか、「カネ絡まないけど一生懸命やらんといかんもん」でのたうち回る経験ですかね。
それは余談。でも人間の精神活動に置いては、実は普遍的なことなのかもしれませんね。
カネ絡むとあかんのですよ、儲かると合ってる、儲かってないと間違ってる、と勘違いする。関係ない。カネの話とは独立事象ですね。
しかし、してみると、簡単なことやな(笑)
「やり方や道具は製品に規定される」
ってそらそうやろ、という話なんですが、この高い電気鍋があったら美味しい煮込み料理ができる、と思うじゃないですか(笑)煮込みなんてこの2年ぐらい食ってなくても!
まいどアホみたいなこと言うててすいません。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記