2022年04月07日

回心

今朝もまた、身も蓋もない話をします。

 拙者御存知の通り「身も蓋もない話」が大好きで、言い換えれば真理を一言で突いている話。
 高校生の頃、深夜TV『モーレツ!科学教室』にて、UCLAで当時話題の新素材「ファイン・セラミック」の研究をしていた華やかな生活を捨て、帰国して実家の喫茶店のマスターになったトンチ博士が、ポンチくんに「なぜ帰ってきたんですか」と問われて答え、
「ポンチくん……
 セラミックは、割れるんだ」
 当時TVの前で「あーっ!」とか叫んでリアルに膝を打ちました。ホントに打つもんですねホントに「なるほど」すると。

 セラミックさえあればなんでも解決、鉄の代わりもアルミの代わりも木の代わりもなんでもできる、しかも型に入れたケイ素焼くだけだから枯れた技術で安くて簡単!と言われてたんですが、確かに割れちゃうとミッション・クリティカルな部分(たとえば自動車用エンジン)では使えませんよね。そうなると使用用途は思いの外限られる……といっても、いま新築の家の外壁なんか焼き物パネル一辺倒、おかげで外壁のメンテコストがだいぶ減ってるそうですから、当時の研究者たちの奮闘は報われているのでしょう。

「回心」ってことが稀に起こります。
 本来は宗教的な帰依、神の実存なり仏の偏在なりが実感として得られて、心の底からそれを信じるようになる、という意味ですが、要はそれ
「ガラッとものの見方が変わる」
ということなので(無理くり)そういうこと一般の話だと思ってください。
 これがなぜ・どうやって起きるのかを研究しているのですが、「なぜ」は置いといて「どうやって」の一つには、上記の例のように、
「『つまり』の一言」
みたいなものを見つける、というのがあります。
 割れるものを(もちろん金属も割れますが、割れやすいという意味で)エンジンに使いたがる人は居ませんから、性能とか実現可能性とか考えるだけ無駄です。
 私はこの「つまり」が大好きで、そんなに関係ないことでも一生懸命調べたり考えたりしてしまいます。でもなかなかわかんないことがほとんどです。

 あるいは宗教家の場合、「修行」というシステムを通じて、けっこう無理矢理に、それこそ身体的・精神的なストレスや危機的状況を通じて意識を朦朧とさせ、幻覚幻視幻聴みたいなものを呼び込んでまでそれを起こそうとしますね。大変ですね。

 いずれにしてもそれはなかなか難しく、
「そうか!」
という瞬間はなかなか稀です。
 その一瞬は輝いて見えても、3日も経てばまったく今までと同じ見方しかできなくなってて、「あの悦びはなんだったんだ」と自分に呆れることも、僕の場合10度や20度ではないです。
 つらいなあ(笑)

 でもまあ、おそらくですけど、春の日和のようにふわふわで生きているとそういうことは起きないのではないか、と思います。
 なぜなら、起こす意味も起きる意味もないから。
 しあわせですもんね、すでに。

 僕は、自意識的には、大変しあわせな子供時代を送れた……と思い込んでいるのですが、それでもこういう「回心」に対する渇望みたいなものがあって、そのくせ飛び込んでいく度胸と熱意はそれほど無くて=いつも醒めてて、なんでそうなんかな、と考えることがあるのですが、これつまり人間という種が持つ、「進化」への駆動力なんじゃないかな、と。
 他の動物なり植物なりは、生存のための本能なり欲望なりで進化へのドライブが掛かるのだろうと思いますが、人間は(おそらく)大脳の支配範囲がでかいので、そこにあらかじめ、
「ものの見方を変えよ」
「そのための努力をせよ」
というプログラム、いわば「自己回心エンジン」が書き込まれてて、それに突き動かされるようになってるのかなあ……とか。
 もちろん、僕の場合に限れば、「しあわせだった」という記憶を自分で捏造したくなるほどつらい幼少期を送ってて、それが抑圧されてて、そこがドライブしてる、という可能性もそりゃゼロではないと思うんですが、自分でそれを認知する能力はないし、する気もない。
 となると、まあそういう、
「人間にはもともとそういうエンジンがある」
という考え方になります。もちろん、人によって強い・弱い、さらにはある・ないという差はあるのでしょうけれども。

「なぜこんなに
 『つまりなんやねん』
 を探すことに躍起になるのか俺よ」

という疑問に対する、いまの私の答え。
 でも、あとパズルと一緒で、解けた時の
「あーっ!」
がキモチイイから、という身も蓋もない理由の可能性はすごくあります(笑)
posted by 犀角 at 00:00| 雑記