2022年03月05日
V=R
以下はFantiaに投稿したテキストです。
こちらにもコピーしておきます。
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「メタバースってセカンドライフと何が違うん?」
と虚空に問うおじいさんですどうもこんばんわ。
VR=ヴァーチャルリアリティ、AR=オーグメンテッドリアイリティなどなどこの辺の技術が次の金脈だ!と、金鉱掘り達がわっせわっせとマイニングしていますが、「なんとかリアリティ」だってそもそも現実=リアルではないでしょうか。
わたし30代の頃『FF11』というMMORPGをずっとやってまして、期間ではおそらく11年ぐらい、実時間ではプレイタイム見ますと370日以上、つまり1年あっちの世界(ちなみにヴァナ・ディール言います)に留学?赴任?していたんですが、もうリアルですよ。
今でも思い出す、フルアラ18名ギリギリの難敵NMとの死闘、ヒーラーが盾を庇って倒れ、その盾も不死技切れて倒れ、ターゲット取ったアタッカー達が無残に骸を晒していく中、最後に残った黒魔道士(ヌーカーが残るな)の私がですね、スックと立ち上がって(休んでたんか)無限魔力技発動、最後の最後で最強魔法をぶっ放して最後1ドット削って倒す。「やったーーーーー!!!」流れる歓喜の声声声、
「わたしヒロイン!!」
の高揚感。
あれは現実でございます。
まあそこまでではなくても、マンガ読んで・小説読んで・音楽聴いて・名画観て・その世界に没入する経験は皆さん毎日のように経験されてるでしょうし、広げればスポーツだってそう。あるいは、ニュースひとつだってそうと「拡張現実」と言えるかもしれません。
ソローの『森の生活』みたいなのしてたなら、ウクライナとロシアがどうなろうと何も知らない。
コンテンツづくりというのは、この、
「誰かの現実(人生)を拡張するもの」
という視点で観ると、わりと素直に尊いと思えることですし、古今、それこそアルタミラの洞窟の時代から、上手に大きく拡張できる技術やセンスを持つ人が高い称賛を受けることも納得できます。
近代以前はもとより、現代でもコロナ禍ひとつで電車に乗って隣町にも行きづらくなる、人間にはその程度のモビリティしかなく、月や異世界はおろか、昭和初期ぐらいなら「海を見たこと無い」という人が山のように居たものです。
でも、そういう人たちでも「海」を経験できる……というか、海という現実を自分の現実に付け加えることができる、そのための大変強力なツールが、コンテンツです。
もちろん教科書や百科事典で「海」を知ってもいいわけですが、それよりも映画でTVで小説でアニメでラジオでゲームで最近ではSNSなりなんなりで、様々な角度から「海」を感じると、自分の現実に付け加わる「海」がより豊かに大きくなる。
反面、そういうご時世ですから、逆にさして欲しくもないのに降ってくる「現実」に振り回されもします。特に戦争なり災害なりの大事件が起きますと、文字通り洪水のように「求めてもない現実」が降り注いで、気分が悪くなったりもします。小狡い輩がそれを利用した言動をして、ビューを集めたりもします。
でもそういう状況下でも、善意すくなくとも悪意抜きでちゃんと作られたコンテンツは、アジール=避難場所になる、少なくともそれをしばらく忘れさせてくれる解熱剤にはなる。
というところを考えますと、それらコンテンツ製作の方針として、
「拡張現実として取り込みやすい」
みたいなところをめざす、のも手かもしれません。
言ってて茫漠としてて「どないすんねん」という感じですけど(笑)
ひとつ、昔から思うのですが、
「五感にアプローチ」
というのはあるんじゃないかと思います。言うまでもなく、
見える・聴こえる・触れられる・嗅げる・味わえる
ですが、それらがやれているような感じになる。
特に、例えばマンガだと視覚の点ではみなさん一生懸命工夫を凝らし心血を注ぐ、わけですが、それ以外の四感が立ち上ってくる、ようなものはなかなかありませんね。グルメ漫画数ありますが、ホントに美味い物が目の前に出現して・喰えて・超美味い、という気になれる作品は、もちろん読者によりけりでしょうけども、そんなにあるようには思いません。
でもそこについても、意識して工夫が凝らされているのと、ぜんぜんハナから何もしない、というのとでは、長い目(?)で見て大きな違いが生じる、だろう、と思うのです。
わたしがこういう小文をしたためるときにいつもまるでラジオ・パーソナリティかなにかのように、喋り言葉に近い文体とディテールとリズムで書きますのも、つまり「人の話を聞いた」というリアル現実(笑)に近い実感を得てもらうことで、自分の現実が膨らんだような気がする、といったところを狙っているのかもしれません。自分でもわからないのですが。
それだったらラジオでいいじゃん、という話にならないのは、文章で・まるで聴こえてくるようだ、という点で二感にアプローチできる、からです。(もちろんどっちつかずになる危険性はある)
司馬遼太郎先生の文章は視覚刺激性能が高く、読んでるとまるでバルチック艦隊が距離八千に迫ってくる気がするのですが、それが意図的なものかどうかはともかく、結果として大作家・大作品群になっているひとつの大きな理由ではないか、と思います。
くどいようですが、やってやれるかどうかはわからないですが、意識してるかしてないかでは差がある、と思います。
思います、というか信じます、ってレベルですね最早。
個人的には、そこの「繋ぐところ」っていうのにコダワリ倒して来たつもりで、それがハマる人にはハマったんじゃないかと思うのですが、確証はありません。どのぐらいできてるかどうかもわからない。ひょっとすると全部幻かもしれません。
というところで最初に戻ると、幻も、見た以上はその人の現実です。
いい幻をたくさん見れたり、いい幻を一生懸命追いかけることができたら、それはいい現実つまりいい人生を生きたってことになるんじゃないでしょうか。追っかけるのがVtuberかトロイの遺跡かでそんなに違いはない。
ない?
終活で部屋片付けてたら本が出てきて
「わーこれ楽しかったなぁ……」
とホッとして貰えるような仮想拡張幻現実を、つくりたいですね。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記