2022年03月04日
すべて捨てよ
以下はFantiaに投稿したテキストです。
こちらにもコピーしておきます。
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最近の僕の仮説なんですけど、
もうこれ「構成」とかって全部捨てちゃうのも手かもしれません。
結局、
「おもしろさ」ってなんだろう?
という疑問に対して、
「きっとそれは作ることができるもので、作り方がある」
という前提があるから、
「答えを探そう」
ってことになるわけですが、
この前提がもし間違ってて、
「そもそも作ることはできない」
だとしたら?
もし「おもしろさ」のキモがわかったとしても、
それが人間の手で(僕の手で)再現できないのであれば、
わかり損(?)ですよね。ガックリするだけで。
20年前後ウニウニ考えて調べてやってきて思うんですけど、
「これ作れないんじゃないか?」
もちろん文章(なり音なり画なりなんなり)を作ってるのは自分なので、作っては居るんですけど、作為的に
「おもしろいものを作ろうとしておもしろいものができる」
ということは無い……ような気がしてならないんですね。
創作ってカオスそのもので、
決定論的な方程式に放り込んでも、
ほんのちょっとした初期値の違いで、
まるで違う軌跡が描かれるわけでしょう。
同じように、
キャラとか世界観とかストーリーとか小ネタとか
いろんな角度・要素からそれっぽく構えても、
描かれる軌跡が美しい=おもしろいとは限らない。
ハリウッドでも、
最近は減りましたけど、
大ネタでスター集めて大予算で大ゴケすることありますからね。
おもしろい、っていうのはそういう問題じゃない。
じゃどうすんだよ!
と自分にキレ気味にツッコんでみると、
もうこれ、構成とか仕掛けとか一切合切ぜーんぶ捨てて、
「そんとき思いついたものを、
できるだけシンプルに描く」
しかないんじゃないか。
「勝つと思うな思えば負けよ」
は柔の世界だけではなくて、なんにでも共通でしょう。
となると、
「おもしろくしようとするな、
思えばおもしろくなくなる」
古武術の甲野善紀さん、
一時著作たくさん読んだのですが、
印象的だったのが
「構えると読まれる」(意訳)
という示唆で、
パンチでもキックでも大振りすると軌道読まれて避けやすい。
『ガンダム』の名シーンでグフを駆る歴戦の勇士ランバ・ラルが
アムロのガンダムを誉めてましたね、
「正確な射撃だ……
が、それゆえにコンピュータには予測しやすい」
結局、
作為持って「こういう流れで」と思った瞬間、
読者に読まれて待ち構えられてしまう。
もちろん、吉本新喜劇のように
「それ」を待って観客も一体になってワーッと盛り上がる、
という芸というかエンタメもあるんですけど、
それはメタな話というか「作品としてどうか」という話からは若干切り離して考えないとややこしくなるのでここは置いといて、
つまり
「あっ」
という驚き、の連続、がコンテンツに触れる楽しさの大きな部分を占めるのであれば、作為を持った瞬間、その驚きの可能性をだいぶ削ってしまう。
この情報化時代、
作り手も受け手もだいたいおんなじもん観てるんで、
ほんのちいさな予兆すら掴まえて、
「あああれですね」
みたいにどうしても思っちゃいます。
この3月で『おかあさんといっしょ』の『ガラピコぷ〜』が終わるそうなのですが、そりゃもうガラピコの星から調査隊かなんか来てガラピコ見つかって、しかも実は王子様的な絶対に帰らざるを得ない人で、母星に帰るしかなくて、みんなで大騒ぎして涙のお別れしたあと、ちょっとして外交使節として戻ってくるんですよまちがいない。
その「飽きさせない」という恩恵以外にも、
・自由が確保できるので作ってて楽しいし楽
とか、結局普遍的なおもしろさはパターンがあるので、
そこからの脱却は必然的に独自性を喪わせない効果があります。
・独自性、ユニークである
というのは創作物にとって極めて重要で、
というよりそれさえあれば他は要らないとさえ言える重要な要素なので、
それを阻害しない、
しらずに阻害することを予防できる、
というだけでも大きい。
やり方、システムをなぜ導入したいかといえば、
楽をしたいとか効率化したい、の他に
「そのシステムによってブースト(ドーピング)したい」
という欲があると思うのですが、
実はこれは本質的に間違っていて、
効率が上がってもピークパフォーマンスは上がりません。
で、
創作で特に必要なのは一瞬のピークパフォーマンス、
一言の決め台詞
一コマの絵
耳に残るワンフレーズ
であって、それがないものを何百何千何万と量産しても
なんの意味もない。
ここの勘違いがこの30年間坂道を転げ落ちる日本の元凶じゃないかと思ったりもするのですが、それはさておき。
断捨離がこんまりが流行ってやってみた方も多いかと思いますが、
そんなに幸せにはなりませんでしょう?
あたりまえですよね、
日常を効率化して空いた時間をエネルギーを、
「使う先」
が何より重要で、それがないなら浮いたそれらを
twitterやtiktokで空費するだけです。
なので、
こと創作に関してはそういうものは無い、
というか、
要らない。
もしあったとしても。
……というようなことで、
作為を放棄して、
「描けるように描く」
強いて言えば
「描くべきものだけを描く」
という点のみに作為を発揮する、
あるいはそういう姿勢を保つことを作為と呼ぶ、
というような態度で
しばらくやってみようかな、
と思う所存であります。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記