2021年07月29日

ソデトーク #05 『巧さ無用』


以下はFantiaに投稿したテキストです。
こちらにもコピーしておきます。
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●学習によって得た「巧さ」は、コンテンツにおける最大価値「唯一」「アイデア」と相反するか、少なくとも関係がない。
「巧さ」によって引き上げられる得点は、1割、10%といったオーダーだが、「唯一」だと0が1になるし、100が200になったりする。
 つまり、もちろん蔑ろにすべきではないものの、「そこに力を割けば良くなる」という考え方は捨てるべき。

 そして「唯一」を手に入れるためには、「巧さ」を手に入れるのと違うアプローチが必要。ちなみに「巧さ」はある程度(3年ぐらい?)やると手にできる。最悪手にしなくても、唯一性が高ければなんとでもなる。外部化(可能なパートの外注など)もできる。

 しかし、「唯一」には、他者が感じる「おもしろさ」に直結する、という保証はない。初めてのものだったり唯一のものだったりするから。だから作者が「これは!」と感じることが大事、というか全てで、それは他者(編集、P、コアファン)にはできない。
 ここの齟齬、作者は面白いと思っているのに理解されない、という点が創作の大きなハードルで、そこを適切に回避する方法は無い。ただし、「──というハードルがある」と前もって理解していると、いくばくか精神的平衡は保てる(だろう)。

 創作者は不安なので、「保証された面白さ」を求めるのだが、それは上記のように「ない」。おもしろさの源泉は唯一性にあり、それは生み出されるかどうかもわからなければ、生み出されたとして理解されるかどうかもわからない。
 なので毎回、保証されない面白さ(の源泉である唯一性)を求めて彷徨うしかない。
 それは旅と旅行の違いに似ており、優れたガイド本で計画を立ててそのとおり動くとある一定の喜びが得られるが、だいたいそういう旅行でも後年覚えているのはハプニングやアクシデント、予想外の喜怒哀楽、道連れとの会話であり、ガイド本のおかげでは「ない」ところ、つまりその旅行をただ一つのその旅行たらしめている部分にこそ価値がある。

 さらに蛇足を重ねると、作為、「面白くしてやろう」という意識を持つと、だいたい「既にわかってる面白さ」へ引っ張られてしまう。そしてより強い面白さであるユニークネスから離れてしまう。
 作為は(できれば)持たない方がよい。

●「速度・強度・精度で勝負が決まる」
というのはスポーツのような「決められたルール内で出せるパフォーマンスを競う」場合の話で、それですら伝説のビリー・ビーン率いるオークランド・アスレチックスのように「パフォーマンスの物差しを変える」ことで旧評価における「速度・強度・精度」では多少足りなくても、十分戦える集団を作ることもできる。
 これもまたアイデア、イノベーション。

●以上を一般的な生活にも拡張すると、人の日々とは、
「私が(唯一の)私である」
というところに最大の価値がある。その人がどのようないわゆる「良き性質」を持っているかとか、どれぐらい社会/地域/ネットワークに貢献できるか、といったことはそれに比べると、かなり小さな価値しかない。
(思い出せ、絵が巧い、より、その人ならではの絵を描ける、の方が遥かに強い)
 したがって、「私である」ということを妨げるようなアクションは避け/離れ/逃げる。わかりやすいのは暴力、ハラスメント、抑圧だが、学習のようないいものでも一歩間違うと(例えば過剰適応、過学習)マイナスに働く。
 さて私は「私で無くされるストレス」から今日一日フリーで居られただろうか。寝床で思い返してみよう。

 ちなみに、「私である」ということを強化する方向があるのか、方法論があるのか、は今の僕にはわからないです。無くはない気はするのですが、それよりも「そうでなくさせる」という力から逃れる方が先だし、それに忙しいですね。そこからほとんどフリーだな、と思えるようになってから、考えましょう。

 また会おうね(アンディ・デイ風に
posted by 犀角 at 00:00| 雑記