2013年05月12日

本「合理的な神秘主義 生きるための思想史」安冨歩




 これはとてつもない本です。

 込められたものがあまりに膨大で簡単に感想文など書けません。というよりも、僕も何度も目は通しましたが「読み込む」のはこれからコツコツ、という段階です。
 なのでとりあえず、自分の話をします(笑)
 ちょっと長いよ。

 もう何度も書いてますが、僕は高校から大学に上がる時にひとつの問題に気づき(正確には幼少時から感じていた矛盾について言語化でき)、「これをなんとかせねば」と独りでその探求を始めました。
 それは「二つの認識システム間の齟齬」というものです。つまり当時(90年頃)未だ万能の名を欲しいままにしていた合理的アプローチと、脇に追いやられたりとはいえ宗教を始め芸術文化職人芸からスポーツまで、その存在を否定出来ない神秘的アプローチです。(僕は「科学」と「悟り」と呼んでました)

 簡単にいえば、世界は合理性をとことん追い詰めていくと、どうしても解決できないコアな部分が最後に残って、人はその周辺でぐるぐる廻るしかない。
 例えば「ひとだま」が「何」であるか、は、我々には「わからない」。
 しかし我々は、やれプラズマだ、やれ目撃者が嘘を付いている、と、その「わからなさ」を合理の領域に無理矢理ねじ込むか、無視を決め込みます。
 つまり、「わからない」ということを認めようとしない。世の中なんてわからないことだらけなのに、その状態を恐れるかのように。

 またあるいは、風邪薬を例に取りましょう。
 あれはウィルスを滅するつまり風邪を「治す」ものではない、のはさすがに現代の皆さんはご存知でしょう。身体の自然治癒力が発揮された結果として出た諸症状を、無理矢理抑制することで当座の辛さを緩和する、それだけのものです。見方によっては、毒。
 しかし我々は頭でそれを理解しつつも、「治る」と信じてルルやベンザを手にとる。

 これはいったいどういうことか。

 こんな「まちがったこと」ズレたこと矛盾したことを思ったり考えたりやったりしていては、いずれ大変なことが起きるのではないか。

 しかしこれをバブル最盛期'90年前後に口にすると、狂人扱いでした。
 いや冗談抜きで。
 その頃「科学的」という文言は「世の中はすべて(いずれ)科学で説明がつく」という考え方を表すために使われていました。
「どうやってもわからない」などという部分は無い。そんなものを認めるお前はただのオカルト好きだ。
 チェルノブイリが爆発し天安門で湾岸戦争で虐殺が起き環境貧困戦乱が世界を覆ってもまだ、科学とは、合理とは、いずれ世界をすべて明らかにしてくれる不朽の灯りなのだ、いまはちょっと足りないだけなのだと。

 以来20余年。
 それが妄想に過ぎないことはバブル期にもまして矛盾が噴出する世界と社会が示しているではないですか。特に日本では。

 科学では解決できない問題があるんです。
 それを認めることが「科学的」態度なんです。
 こんな簡単なことがなぜわからん。

 実は物書きになってから、考え始めたことがありまして、それは
・「おもしろい」とは何か
です。ところがこれを考えていくとこれもまた、最後の最後で「わからない」部分にブチ当たる。
 たとえば、魅力的なキャラ・個性的な世界観・起伏のあるストーリー。いくつか揃っていても今ひとつ盛り上がらないものもありますし、逆にこれらがなくても人気や評価を博す作品はある。そして、そういう作品から伝わる魅力は大抵の場合、言葉であらわせない、つまり、「神秘」の領域にあります。
「バランスがいい」なんて何も言ってないに等しいですし、作者の「情熱」とか「愛」も、もちろんあればあった方がいいですがそれが根本原因ではありません。
 いい例が初音ミクです。
 彼女には心も愛もありませんが(……いや、ありますか)、我々は彼女の歌に耳を傾けるではないですか。

 同じ構図です。
 つまり世界の「たいせつなこと」には、(おそらく)永遠に「わからない」部分がある。

 このようにして、どこをどうやっても肝心なところで堂々巡る思考にヘトヘトに疲れきった僕は、まさに満洲の野で屈強なコサック騎兵を前に塹壕でガタガタ震える初年兵。もうあとは降伏(限界のある科学的アプローチをそれと知りながら無闇に採用する)か、全滅(ニヒルな隠遁者として全ての問題から逃げる)か、どちらかしかないのか……その苦悩は、2011.3.11に原発が4つほど爆発して頂点に達しました。

 やっぱダメじゃないか!
 ダメな原因ってここじゃないの!?
 みんななんで正気でいられるの!?

 その、塹壕で震える僕の前に突如空から降ってきたのが安冨博士。
「これを使うのじゃ!」と取り出したものは黒光りのする金属の筒の束。博士が指先でトリッガーを引くと爆音が轟き、眼前の大男共がバタバタと薙ぎ払われていくのです。

「はっ、博士!なんですかこれは!」
「はっはっはー!これが!
『合理的な神秘主義』
じゃよー!」

 つまり人間の・生命のいちばん大切な部分、価値を生み出す「創発」はなぜ起きるか、そこは神秘の領域なので触れない。
 ありがたく果実を頂戴する。
 しかし、この「創発」を阻害するものはある。「暴力」など。これらは合理的アプローチを用いて考察し研究し、排除する。
 僕の課題について当てはめれば、「おもしろさ」を生み出す方法論はわからないけど、「おもしろくなくする」ものはいろいろ明示できるので、それをできるだけ取り除いて創作に勤しむ。
 とりあえずそれで。

 そんな詐欺みたいな話があるか、「良きもの」を手に入れたいからどうすれば手に入れられるのか研究するのであって!と思われたら、僕が反問しましょう、
「友達って、どうやってできました?」
 配偶者をお持ちなら、奥様旦那様となぜ結婚されました?
「なぜって言われても」
 うまく行っている人間関係ほど、そうとしか言いようがないと思います。もちろん出会いにはキッカケがあり、その後起きたいろんなイベントでさらに仲良くなったとは思いますが、同じように日々を過ごした何人かの中で友人になる・ならないはまさに「神秘」としか言いようがありません。
 しかし良くない友達の作り方は記述できます、例えば収入家柄コネ、そういったもので選択し媚を売って近づく。
 最悪ですね。
 ならばそういうことはしない。

 友達や相方は人生にとって、とてもたいせつなものです。友達でこんなありさまなら、仕事、趣味、考え方、住む場所、ひょっとすると買ってるものや使ってるもの身につけてるものまで、自由意志を持って「選択している」と思い込んでいるだけで、実は内面にある神秘的な創発が発動して縁起が結ばれ、それに導かれているだけ、かも、しれません。

 足元がグラグラ揺らぐでしょう。
 それはとてもいいことです。
 そこでこの本を開く。

「いやきっと『勝利の方程式』があるはずだ」とまだ信じたい貴方に、孔子・ブッダ・ソクラテスに始まり、龍樹・親鸞・スピノザを経由しマルクス・フロイト・ラッセルからヴィットゲンシュタイン・ポラニー・ウィーナーといった若手(笑)まで、寄ってたかってその「思い込み」をズタズタに引き裂きます。
 実は彼ら自身が、「確かなもの」があると思っていたのに、思想を深めるにつれて、「あ、こりゃダメだ」と「神秘」を認めるに至るか、あくまでそれを認めず歯を食いしばって死ぬまで延々と負け戦を続けた、のです。

 僕の印象に強く残ったのは、ラッセルのあの膨大な仕事がつまりは「確実なもの」を人生を賭けて求めに求めに求め抜いて延々と敗退を続けた、人類の叡智の逆オデュッセイアーである、という卓見でした。
 ラッセルといえば難解の代名詞、実際手にとっても目がチカチカするばかりなのですが、それも当然。自分が構築した問いを自分で壊して回っているわけで、そんなものがわかりやすいはずがない。
 スケールはだいぶ違いますが、現代でも「頭がいい」とされる人の文章を読むと、極めて読みにくいことが多いのはつまりはここではないでしょうか。
 彼らは強力な論理能力を持ってブルドーザーのように道をつけていくわけですが、あるところに行くと神秘の壁に必ずブチ当たる。
 しかしそこで「わからない」とは言えない(と思い込んでいる)ので、なんとか右往左往したり、ごまかしたりしはじめて、ぜんっぜん何を言ってるかわからなくなる、んです。
 その究極が「東大話法」。

 ラッセルでダメなんだから人類全部ダメっすよそんなもん。

 この本のすごいところ。
 それは、僕、あるいはそのへんの八百屋のおやっさんが
「いやあ人生は結局は神秘だねぇ」
と言っても誰も聞いてくれないではないですか。信じられないですよね。
 これを、古今東西のありとあらゆる知のスーパースターを引っ張り出してきて
「ほらこの人はこう!この人はこう!この人からこの人に繋がってここでこう!……ね、『神秘』あるでしょ?」
と明らかにしてしまったところ、です。これは哲学歴史学心理学物理学経済学、様々なジャンルを渡り歩いた安冨博士だからこそできること。

 近代とは、いわゆる科学的思考による物質的成功体験があまりに強烈だったがゆえに、それに縛られすぎた時期、と言えるかもしれません。
 いまでも「風邪薬では治らない」という言葉に耳をふさぐ人はいくらでも居ます。(ウチの母もそうです)彼らが守ろうとしているのは、風邪薬ではなく、「風邪薬で風邪が治る世界」つまりいわゆる合理的アプローチだけで記述できる、安心できる世界なのです。

 そんなもんありますかいな。
 この世界はわからないことが大半ですやんか。

 そしてこの、目をギュッと閉じ耳を塞いだ状態こそが、魂にフタがされた状態、「魂の植民地化」なのです。

 これは僕の解釈ですが。
 もし人の魂が誰か他人の地平を生きるように歪められてるとするなら、そこから脱して「じぶんの」生を生きるためには、どうしても自信、つまり「自分の感覚に対する信頼」が必要になると思います。
 それにはまず、「貴方には、いや誰にでも、価値を生み出す『創発』を起こす内なる力がある」という手触り・実感が必要でしょう。
 簡単ではないかもしれませんが、でも、「あっ」とアイデアが閃く瞬間は誰にでもあるはずです。ふと手にした本や小物がお気に入りになることも、単なる偶然で知り合った人物と生涯の友となることも。
 これらはみな創発であり、つまり貴方の中の神秘は、阻害さえなければすでにいつでも作動している。
 この、自分に対する信頼を取り戻すことが出来れば、「誰かの地平を生きる」ことを辞めることは、そう難しくないことでしょう。

 この本はその旅のガイドブックにピッタリです。

 僕は初めて読んだ時に、
「あぁ、あの悩み始めた19歳の時にこの本があればなぁ……」
と泣きそうなりました。亡くした時間と労力の大きさも惜しいのですがそれよりも、ちょっとおおげさにいえば親鸞上人の
『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり』
にも似た感動です。
 なんでこんな、僕の悩みについて人類史上の偉人賢人がよってたかって答えを考えてくれたんだ!(笑)
 まったくもってこれこそ「ありがたい」。

 まあ、苦しんだからこそ今この本の重みが骨身に沁みてわかる、とも言えます。こんな強烈な武器をあの頃の鼻っ柱ばかり強い僕が手にしていたら、間違いなく道を誤っていました。
 縁には時期があるものですよ。

 逆に言えば、今この本を手に取れる若者達は、巨人の肩どころの騒ぎじゃない、ロケットに乗ってハッブル望遠鏡を覗きに行くようなものです。
 むしろご注意されたし。これを鵜呑みにして自分の感覚を喪わないように。ここを足がかりに自分の思想・研究を深めていかねばなりません。賢人たちの原著に当たるのも良いですね。僕も積んであります!

 道元先生が青雲の志を抱き船で中国に着いた時、老典座(料理番)が遠くの寺からやってきて日本から積んできた干し椎茸を分けてくれ、と言う。
「老師、典座など若い者にやらせればいいではないですか」
「何を言う若いの、これこそが修行ぢゃ!喝ーッ!」
 道元先生ガーン。

 昔この話聞いた時に「辛気臭い、痩せ我慢な話やなぁ」と思ったのですが、いまこうして「神秘」と「合理」の境界を見つめてみますと、まさにこの老典座の気持ちがわかります。
 書物や講義で古人の智慧を学ぶことも大切ですが、それ以上に、もし僕が料理番を任されていて異国から珍しい美味い食材が来ると知ったら、それはもう自転車でも漕いで飛んでいくでしょう。手に入れたら脇目もふらず飛んで帰って、「どんな料理ができるだろうか」「食べたみんなは喜ぶだろうか」と心からワクワクするはずです。
 これがたいせつ。
 で、それをたいせつにするのが修行。

 合理を究めんとはるばる苦労してやってきた大秀才・道元だからこそ、その先にある神秘にこの一事で到達できたのかもしれません。が、
 同じことが!
 われわれにはこの本で簡単に!(笑)

 魅力のごく一部しかお伝えできてませんが、とにかくどなたにでもおすすめです。
 さらに「オプショナル・ツアー」という4つのテーマに従って各思想家を縦横に飛び回る仕掛けもありまして(往年のゲームブックを思い出していただければ)、それを使うと話の流れがとても見えやすいので、難しい話でも雰囲気を掴みやすい。

 ……ということで、僕の長い長い旅は唐突に終わったわけですが、本当に「もうダメだ」と思った瞬間、道が拓ける、この経験自体がまさに「生きる神秘」だなあ、と感慨深いです。

 この力を生かさない手はありませんよ。
posted by 犀角 at 17:25|