2018年01月13日

・本「月たった2万円のふたりごはん」奥田けい ・本「世界一美味しい煮卵の作り方」はらぺこグリズリー




『2万円──』の方は可愛いイラストでやってみようかしら気分惹起力が強い。『煮卵──』は簡便なレシピ「も」多くて参考になる。

 でもレシピ本いつも読んで思うんですけど、基本的に料理好きな人が著する書物なので、基本的に手が込んでいるんです。
 ハンバーグなんてくっそめんどくさくて作ってられるか。
 ハンバーグは4人家族だから作ろうかな、と思う料理やで。

 いまスーパーの小さな雑誌コーナーに行きますと、クックパッドのレシピをまとめただけ本がアホみたいにあるのですが、つまり簡単にできればできるに越したことはなく、クックパッドの利点として手軽な料理は人気を集めやすく、レシピ開発者がこぞってそちらの方向にチューニングをして結果として簡単なレシピが並びやすい。
(もちろんその弊害はあって、手が掛かってもいいから美味しくしたい、ようなレシピは埋没しやすい。まあその手は料理人や料理研究家が記すレシピを参考せよ、とは言えるものの)

 わたし2年とすこしごはんを作ってきて「いつか」
「しょうがなく作る(けどそこそこちゃんとした)料理」
のレシピ本を作りたいな、と思ってて、タイトルはもう決まってるんです、
『NO GINGER COOKING』
 そのこと自体がめんどくさくて一歩も進んでないんですが。

●てな今日は午前中に夫婦で散歩に出かけたので、
 スーパーで奥さんは刺身盛、僕はメンチカツ丼を買い込んで楽をしました。
 でもお味噌汁作ったりしてると洗い物の数あんまり変わらなくて、人間が生きていくっていうのは、めんどくさいもんですなあ。

posted by ながた at 00:00|

2018年01月07日

本「40歳を過ぎて最高の成果を出せる「疲れない体」と「折れない心」のつくり方」葛西紀明 本「40代から最短で速くなるマラソン上達法」本間俊之




 葛西さんの方は各単元ごとにこまごまと具体的に書いてあって、非常に参考になりました。葛西さんわたしの1つ下で、いちいちウンウンうなずきながら読みました。
「若い頃はがむしゃらに頑張ったら報われると思ってた」
 ウンウン。
 違うんだよねこれがね……
 特に印象的なのは「心的ストレスを避けろ」という点で、ストレッチでもダイエットでもなんでも、「ねばならん」が昂じすぎると心身に逆に良くないので、羽目をはずす日を設けたり、たとえばランニングでも飽きないように30分以上走らない、とか。

 どうしても「やろう」と作為をもよおすとストレスと隣り合わせなので、うまいこと「やろう」を繰り出さなくても「やってる」のように組むのがよいのかな、と思います。
 やれるようにやる、とか。
 なんとか。

 本間さんの方はエンジニアらしいセルフR&Dの過程が詳細に書かれていてたいへん興味深かったです。その時ごとに参考にした本や人、経験、アドバイスが山盛りで、「まず情報収集から」は上達の基本ですな。
 で結論としては
「フォームにしろ練習法にしろ正解は無い。ひとりひとり違うしまた変化もするので、その時々に応じて自分で開発していけ」
という極めてまっとうなもので、どんな芸でも突き詰めればそういうしかないなあ、と思いました。
 わたしも「こう書いたら絶対おもしろい」みたいな必勝法を探したのですが、ありませんねそんなもの当然。

 その試行錯誤そのものが趣味の場合は一番楽しい。
 というか楽しい試行錯誤のことを趣味という。

 でも僕はもう30分も走ったらおなかいっぱいなので(たぶん白筋の方が多い白身魚なんでしょう。カレイあたりですかね)、フルとか走りませんよ。走りません。
posted by ながた at 22:34|

2018年01月05日

本「UNIXという考え方」Mike Gancarz 監訳:芳尾 桂




 原題「The UNIX Philosophy」、UNIX哲学。

 わたしらの時代は幸せだったなあ、と感じる点はいくつもありますが、特に「コンピュータ」というものが人の生活に浸透していくプロセスを目の当たりにできた、これが知的におもしろかった。いやもちろん現在進行系ですけど。

 そのコンピュータと人間とのインターフェイスを司るのがOS、あまたあるOSの中でもUNIXは、いつのまにやら巨大な存在になっています。
(僕が大学生になったばかりの頃は、まだ研究機関御用達という感じでした)
 サーバ群で使われるLinuxもUNIXですし、MacOS/iOSも、Androidもまあ言えばUNIX、気がつけば組込系とスパコン、つまり上と下を除くカスタマーレベルではWindows系以外はほとんどがUNIX系になってしまいました。
 誕生70年代頭、以来ほぼ50年なぜこのOSがじわりじわりと多くの人々とマシンに受け入れられていったか、その秘密が書かれています。

 9つの定理と10のサブ定理があるのですが、乱暴にまとめて言ってしまえば
「一つのことをうまくやろう」。
プログラムはできるだけシンプルに、一つのことを確実にやってのける。それ以外の機能は別のプログラムに助けを求める。パイプやシェルスクリプトによって人間はそれらを自由に組み合わせて望む出力を得る。シンプルなプログラムは小さいのでメンテしやすいし別の機械にも移植しやすい。
 これあらゆる「道具」に当てはまりませんか。
 料理人も包丁を何本も鍋をいくつも持ちますが、そりゃ牛肉を捌く包丁とリンゴを剥く包丁は別の方がいい。
 そう考えると、UNIXの末っ子みたいなスマホも、「1アプリ1機能」みたいになってますよね。Facebookも、Facebookアプリの中でメッセージのやりとりができますが、別にFBメッセージアプリがあって、こっちの方が使いやすい。LINEなんかいくつ関連アプリがあるかわかんないぐらいです。
 いまじゃ大学生だってスマホ/タブレットで論文書いたりするそうですが、それは「お金が無い」とか「子供の頃から慣れてる」とかの他に、肥大化するPCアプリ、たとえばWordやExcelやPhotoshop、がすでに人間が反応できる領域を超えている、からかもしれません。
 というのは考え過ぎか。

 Small is beautiful.
 言うは簡単ですがそれがなかなか難しい。達成するのはまだなんとかなっても、維持するのが。
 なんとなく、みんながああだこうだ言いながら、ピンチになったら誰かが一からやり直したり、全く新しいことをやろうと思ってたけど結局それより古くからあるものをピシッと建て付け直して使ったほうが早かったり(使えるものは使え、もUNIX哲学)、すったもんだしながら様々なバリエーションを生みつついつのまにやら多勢を占めてる感じ、これ民主主義みたいです。
 逆か。民主主義強し、ということですかね。
 哲学が広く共有され、それをメンテする有志達が居れば。

 コンピュータに興味ない方でもものの考え方として汎用性あることが書いてると思います。
 おすすめ。
posted by ながた at 18:30|

2018年01月04日

本「羽生善治 闘う頭脳」羽生善治


 ハブさんは凄い。
 ハニュウくんも凄いけどハブさん長い間凄い。
 「永世七冠」とか意味わかんないですよね。
 どのぐらい凄いかってWikipediaの「将棋のタイトル戦結果一覧」をご覧あれ。(ハブさんは赤)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E6%A3%8B%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB%E6%88%A6%E7%B5%90%E6%9E%9C%E4%B8%80%E8%A6%A7

 真っ赤っかでしょう。
 なんですかこれは。
 89年の竜王が初タイトル、そこからこの17年の竜王まで28年間で201個のタイトルが発生してそのうち99個を奪取。
 半分。
『ドラクエ』の竜王のセリフ覚えてますか、決戦前に勇者に選択を迫るんです、
「もし わしの みかたになれば せかいの はんぶんを
 たなか にやろう。」
 羽生竜王はこうして世界の半分を残りの棋士に分け与えている。

 今年も(得意の)王位・王座を若手にポロポロと譲って久しぶりに一冠(この表現がすでにおかしい)に後退したあたりで、ニュースだけ見てる方なら「いやぁ羽生さんも年か」なーんて思われたかもしれません(いやタイトル持っとるって)、が、口さがない将棋ファンの間では、
「これは満を持して渡辺を倒すための準備ではないか」
などと囁かれたものです。タイトル戦は長く続くので、粘ってると後で始まったタイトル戦とスケジュールが被ってくるんですね。だからわざと負けてクリアーな状態で闘う、と。

 並の棋士なら「そんなアホな、大切なタイトルを」と一笑に付させれるような穿ち過ぎた見方も、「もっと大切な永世称号が掛かってる」となれば話は別。そんな穿ち方をされてること自体凄い。

「永世」の基準は各棋戦によって違うのですが、ともあれ連続5期とか通算7期とか長らくそのタイトルを保持せねばなりません。羽生さんにとって最後に残った永世タイトルが(この表現もまたおかしい)この竜王で、これ渡辺さんに過去二回、阻まれてるんですよね。
 しかも最初の2008年は3連勝後の4連敗(この言葉聞くとわたしら往年の近鉄ファンはいまだに胸がシクシクする)、これはタイトル戦では初の大逆転劇、おまけにこれに勝った渡辺が初代永世竜王、ということで因縁の相手、「倒すなら渡辺」というまさに将棋神が整えた三度目の大舞台、ここでズバッとやっちゃうところがスーパースター。
 去年はスーパールーキー藤井聡太さんの連勝が話題になりましたが、どっこいラスボス健在という感じです。

 あ、本の話ですね。
 羽生さんのイノベーティブな点は、これは若い頃よく言われたことですっかりもう当たり前になっちゃったので(真にイノベーティブなことは「あたりまえ」になるものです)もはや皆さんお忘れかもしれませんが、
「将棋はゲーム」
と言い切り、人間力とかそういう妄想の産物を排除したことです。
 女・酒・博打、遊んで遊んで強くなる。
 そんなわけないでしょう、と。
 代わりに研究・試行錯誤・実践。学んで学んで強くなる。
 これ自然。
 霧と霞の向こうに遊ぶ神様たちが、青天白日のもと闘う(頭脳)アスリートになった、みんながそう思うようになった、のはこれ羽生さんの存在が大きい。(もちろんそれは本書で羽生さんも言っているように、それ以前の棋士たちが少しずつ開けてきたドアなのですが)
 ひとの、いや社会の認識を変える個人、というのはやはり天才と言うしかあるまい。
 むしろ天才の定義をそれとしてもよい。

 対談でもインタビューでも、相手がその秘訣、「神秘」を聞き出そうとあの手この手を繰り出してくるのですが、羽生さんの答えはいつも具体的かつ身体的。容易に観念論同士が闘いそうな場面でも
「そのやり方は私には合わないので」
とサラリと身をかわす。
 おそらくここに強さがある。
 人間は「やり方」をシステム化して改良したり、応用したり、たくさん用意したり、したい。
 「よくできる」人ほど、したがる。
 それは確かに強力な武器なんですけど、相手がある場合、固定されたやり方を繰り出せば、もしそれが対策されていた場合、簡単に負ける。だから流れの中、変化の中で、その時その瞬間に応じて「やり方」を変えたりチューニングしたり、絶えずし続けなければならない。
 この「相手」とは、人間のみならず自然でも何かの物体でも研究対象でも同じ。
 だから「必殺の羽生戦法」みたいなものは存在しえないのです。羽生さんが強くあるかぎり。

 それは羽生善治だから?
 いや、凡百の我々こそそうでなければ、と思いますよ。
posted by ながた at 12:41|

2018年01月03日

本「ランニングする前に読む本」田中宏暁




 事の起こりは去年の春先、なんだか身体の調子が悪い。本人的には十分寝たと思って朝起きても、
「はぁ……」
とため息をついて椅子の上でぐったりするばかり。奥さんがよく見れば目の下には深いクマ、そんな時には何を語りかけても「……あぁ……ふん……」と生返事。冗談抜きで、
「……この人もう死ぬんじゃないか」
と思ったそうです。
 これが噂の男性更年期か、まさか慢性疲労症候群、はたまた鬱か。
 とにかくマズイと思い、やれることはやってみました。
 奥さんの通う鍼灸院にお邪魔して元気の出るメジャーツボを刺してもらう。家でもお灸を据えてみる。腰を温める、肩をほぐす、揉んでもらう、風呂に長く入る、タンパク質を取ろうと牛乳をガブ飲みする。サプリも飲む、健康酒も飲む。

 さして効果なし。

 そんな折ですフォーク・デュオ「カズス」の相棒、テルがカー・イベントに誘ってくれたのは。(詳細↓)
http://rakken.sblo.jp/article/180853050.html
 車中、テルが言うのです、
「走り始めた」
と。なんでも奥方が行きがかり上市民マラソン大会に出る羽目になり、それなら、と愛情を発揮して練習に付き合ってるうちにおもしろくなってきたとか。そして何より僕の心を引いた一言は、彼はそれ以前、整体の先生に掛かっていたそうですが、「走ってるおかげで整体いらず」だと。

 走るのか。

 40の声を聞いたあたりから同窓生達がレミングスのように走り始め、あたりまえのようにフルマラソンを完走したりしています。しかしメンツをよく見れば銀行員、公務員、医者、教師、そして経営者。
 つまり走りでもしないとその強いストレスから逃げられないんだ彼らは、と回し車を回っているハムスターを見るように見ていました。

 しかしあれは、回させられているのではなく回っているのであった。

 そんな会話のあと、書店へ行きますとこの本が目に飛び込んでくるのです。中を見ると、ああこの2009年の「ガッテン」の回観た観た。
「スローでいい」
というのが印象的な回でした。しかしそこでフィーチャーされていたのはお年寄りや生活習慣病の方々……ええい。
 買った・読んだ・そして・走り始めた。

 最初は近所のローソンまで数百メートルです。
 行って帰ってゼイゼイ言ってる僕を見て奥さんが大笑いしました。
 しかしやればやれるもので、毎日ちょっとずつ距離を伸ばしていきますと、駅前まで1.2キロぐらいはなんでもなく走れます。スローですしね。
 時はあたかも夏に向かうさながら、朝(といっても7時8時ですが)走って駅前マクドでアイスコーヒーなどヂューッと啜ってまた走って帰る。汗ダクダクで、ほどよく冷めた昨日の風呂に飛び込む。
 これがきもちいい。
 そんな毎日を繰り返していますと、まあテキメンです。
 元気、帰ってきました。
 ほんとすぐ。
 1週間とか10日。
 あの目のクマはどこかへ去り、食欲も湧き活発になる。
 メカニズムとしては、ほどよく疲れるのでよく寝れるんです。で、そういういい睡眠をしたあと気づくんです、ああ僕睡眠不足だった、と。
 もちろん、深い呼吸をすることによって・汗を掻くことによって・身体のいろんな筋肉を動かしたり動かされたりすることによって・血行がよくなり新陳代謝が活発になり、積極性が戻ってきます。
 すっかりマイ・ブームになって、夏のコミケの時など旅先にちゃんとトレパンと帽子を持って行き、前日旧友と呑んだくれたにも関わらず5時半に起きてスーパーホテル品川新馬場を飛び出して2キロぐらい商店街を駆け抜けました。
 あそこ朝も大風呂やってるのでもちろん飛び込む。
 最高。
 このままビール飲んで大阪帰ろかと思うぐらい。
 もちろん腹いっぱい朝食取って元気満タンでいままでにないぐらい快調なコミケでした。体調はね。

 以降、秋口に長雨があってちょっとサボったりもしましたが、チンタラ走り続けています。僕の劇的な効果を見て奥さんも走りはじめて、一緒に公園一周3キロを走ったりもします。

 この本の良さは一言で言えば、
「スロー『が』いい」
と理屈建てて説得してくれるところ。
 有酸素運動を司る回路が回るぐらいのスピードで走らないと、その能力は上がらないそうなんです。つまり速くキツく走っちゃうと、筋肉や心肺能力は上がるかもしれませんが、肝心の酸素を全身に送って活用させる能力はそれほど上がらない。
 で、スプリンターや何かのスポーツの能力を高めるために走ってる、のではない人、つまりほとんどの人にとっては、その「酸素活用能力」の方が、日常を楽にしてくれる、体力を上げてくれる、という意味で大切なのです。

 同窓会で「キロ10分」などというと本格ランナーたちに爆笑されるのですが、これからもそのぐらいで走りますよわたしゃ(笑)

 若い時、25ぐらいをピークに身体能力は落ちていくと思いますが、その頃これを知りたかった気もしますし、いやむしろ45だからたった数日でテキメンに効果が出てこうして続けられているのかもしれず、まあとにかく老いにも若きにも、もちろん男女とわず、それからインドア派の方にこそ、スロー・ジョギングをおすすめしたい。
 言うまでもありませんが、僕も奥さんも根っからの120%インドア派文化系クラブ育ち、走るなんて1mだって御免こうむる、という人間でした。それがトレーニングウェアに身を包んでこのクソ寒い中二人で飛び出していくんですからあーた。
 そのぐらい、効果があります。

 昔の人は生きていく、生活をしているだけで現代人の何倍も身体を動かしていて、それが何万年も続いてたわけですから、おそらく私たちは慢性の運動不足で、ちょっとムリクリでも身体動かさないと不調に陥るような気がします。
 ご存知かもしれませんが、クルマも完全に動かさないよりたまに乗って走り回る方がむしろ、調子を落とさず「走る」という機能を維持し続けます。クルマぐらい簡単なものでさえそうですから、人間なら、もっと。
 もちろんそれには水泳でも太極拳でもフットサルでも縄跳びでもなんでもいいと思うのですが、「走る」は靴履けばいますぐ始められるのが魅力。道具不要、相方不要、技術知識不要、時間いつでも。
 いま・ナウ・いつもの服にいつもの靴で大丈夫、財布と携帯だけポッケに突っ込んで、500mぐらい先のコンビニまで、ハーゲンダッツを買いに行ってみましょう。
 走って。
 行って帰ってゼイゼイ言って、しばらくするとでも、なんとなくちょっと元気になった気がしますよ。
 ボーン・トゥ・ラン。
posted by ながた at 22:53|

2017年11月05日

本「できる100ワザ WordPress」インプレス




 僕には難しすぎました。

 ワードプレス、てのはCMS、コンテンツ・マネージメント・システムの略で……まあとにかくホームページとかブログとかを作れるシステムです。
 文章や絵、音などの素材をデータベースで持って、それをどう表現するかは別に持つ。これがテーマといいまして、つまりテーマを変えると同じ中身でも見せ方をガラッと変えられる。
 ホームページにしろブログにしろ今は無料で見栄えもいいサービスがいろいろあるので、じゃなんでそんな面倒なものいちいち触るか、っていうとつまり広告を貼りたいのです。
 GoogleAdSenseを筆頭に最近個人のブログでもよく広告バナー出ますでしょう、あれってクリックだけでお金が貰えたり、もちろんリンク先から何か買ったらそのサイトの作者にいくばくか紹介料が入ったりするのです。アクセスが多かったり購買行動と親和性の高い内容のwebだったりすると、月数十万円の収入になることも!
(ホームページやブログで無料のサービスっていうのは要は主催側が勝手にそういう広告を貼って、その分を間でインターセプトして運営費用や利益にしているわけですな)

 ということで夢を抱いて挑戦してみたのですが、ま、とにかくその、めんどくさい。
 webサイト作るとするでしょ、だいたいみなさん内容に凝りたい頑張りたい、でも見栄えまでよくするのは大変だからなにかテンプレートみたいなのでそこそこカッコよくしてくれたら……というような感じですよね。
 この「そこそこの見栄えの」っていうだけでもうたいへん。
 上述のテーマっていうのが世界中に山のようにあるわけですが、実はテーマそのものもカスタマイズしようとするとhtmlやらPHPやらなんやらの知識が必要で、それをググったり作者のサイトを漁ったりして詰めていかねばならず、途中で何やってるのかわかんなくなります。
 テーマのことも調べないといけないし、
 WordPressの面倒(アップデートとか)も見ないといけないし、
 便利なプラグインの面倒も……
 ハー!

 一応メリットとしてはそれ以外にもレスポンシブ、つまり端末(の画面やUI)に応じたページを自動的に生成してくれる、というのもあります。
 内容のデータだけ流し込めばスマホ版とパソコン版を勝手に作ってくれる、と。
 確かにありがたいし見栄えもいいんですが、これもこだわりだすと、やっぱりまるまる2つのサイト作り上げるのと同じ手間がかかります。あたりまえですよね。

 おっちゃんがはじめて「ほーむぺーじ」作った時には、プロバイダに「ここやで」と言われたフォルダにindex.htmlのテキストファイルをFFFTPかなんかでポイと置くだけで「Hello, world.」とですね……
 感動したもんさ。
 こ、これで世界中の人がここにアクセスできるのか、と。

 そういうことが複雑になった代わりに豊かな表現力を得た、ってだけなんですが、まあそれにしてもテキストファイルにhtmlタグ直打ちでなんとかなってて、blogを除けば年に1回(新作のPDF化)ファイル載せるか載せないか程度の更新頻度のマイ・サイトでは、めんどくささ>利益、でした。
 ということで諦めて以前の(さくらインターネットさんが会員に無料で提供している)blogに戻る。もちろんホームページは手作りで。
 きっとジャムとかスコーンとかと一緒で、webサイトもそのうち「てづくり」に付加価値つくようになるわ。
 まあ昨今、名刺がわりならwebサイトなど持たなくてもFacebook、twitter、Pixivなどで作品や活動を垂れ流していればいいですしね。

 上記の本は参考資料。web情報観ながらポチポチ組んでもなんとかなったんですが、やっぱりまだ紙の一覧性やあとから引きやすさに弱い世代です。
posted by ながた at 00:00|

2017年10月31日

本「読んでいない本について堂々と語る方法」ピエール・バイヤール




 タイトルからして挑発的ですが、もちろんただのジョーク本や逆張り炎上商法本だったら、天下のちくま学芸に入りません。結論としては、
「すべての本は媒介物にすぎず、
 それをキッカケとして内なる自分を語るのだ」
 素晴らしい。
 ウィトゲンシュタイン曰く
「語りえぬものについては沈黙せねばならない」
 孔子曰く
「怪力乱神を語らず」
 ではそれを誰が語るのか。
 それは貴方だ。

 まず
「『本を読んだ』ってどういう状態を指すの?」
というところから洗い直し、
「どういう状況で『語る』の?」
と「本を語る」ことの意味を確認し、最後に
「どう語ればいいか」
を導き出す。
 具体的な有名作家や作品の例を豊富に引きつつ丁寧に積み上げていくのですが、ちゃんと「読んでない本を語る」形になっているところがメタ的でおもしろい。
 よく見れば、作者が誇張気味にこってり「そういう人」を演じているのですが。フランス人らしい斜め目線というかヒネリ具合というか。

 そうつまり、いままさに僕はこの本について語っているわけですが、僕の読んだ「この本」は、いまこれをお読みの貴方が読む(読んだ)「この本」とは別のものなのです。自分の解釈能力以上の読み方はできませんし、その本から何を汲み取るか、その本に何を触発されるか、は人それぞれ違うから。
 それを社会全体に拡張すると、「この本」には社会がだいたいコンセンサスとして思っている「こういう本」というイメージがあるわけですが、それは脆く、また変化しやすく、またし続ける。その教養空間全体に置ける位置づけも刻一刻変わっていく。
 だもので、本を読む時にだいじなのは、中身もさることながら、その本とその読書体験そのものを、自分と社会(生活)との中でどう位置づけていくか、そこにある。

 言われてみれば確かに無意識で私たちは既にそうしています。
 バカ正直に書いてあることを鵜呑みにするのみならず、自分の都合のいいように解釈したり記憶したり、またアレンジしたりして人に伝えたり嘯いたりしている。
(もちろんこの文章もそう)
 内容が難しい本や解釈に自由度のある文学でなくても、たとえばライトノベルだって、主人公を自分に置き換えて妄想して楽しんで、それを二次創作同人誌に仕立て上げたりもしましょう?
 あらゆる作品は(単なる)触媒であり、創作とは自らが自らの内から引っ張り出す行為それそのものである。

 知らずに自然とやってたことをこう明確に言語化されると、
「わあこの人頭いいな!」
と感心しちゃいますね。

 もし良い作品そうでない作品という区別があるとするなら、触媒としての性能の良し悪しを指すかもしれません。
 だから作家自身にとって良い作品そうでない作品の区別は原理的にはつきません。作家にとって(納得の有無は別にして)「創作した」という事実はどの作品に置いても同じなので。

 バルザック、漱石、ワイルドといった押しも押されぬエース級が口を揃えて「本なんか読まんでええ」と作品中で語り語らせているのを知り、いったん驚いて、いま上で書いたようなことを考えて、なるほどな、と頷きました。
 作家が誠実であればあるほど、己のそれも含めた「本」というものはキッカケに過ぎない、ということをこそ、つまりそれをキッカケにしてどうぞ貴方の想像を羽ばたかせて、と訴えたくなる、はずです。
 でもそういう作家の作品こそリアリティがあり真に迫り結果読者がのめり込み、読者自身の想像力=創造力を停止させてしまう、というこの矛盾。

 フローベルが『ボヴァリー夫人』を書く時に「なんでもないものを書く」と豪語したそうで、それは北杜夫先生『どくとるマンボウ』のあとがき、「どうでもいいものしか書かない」に通ずるなあ、と思い出しました。あるいは北先生はインテリサラブレッドだからそのぐらいのことはご存知だったのかも。

 どんなジャンルでも作為の見えるものは二流品ですが、そりゃそうで、上の原理に忠実であれば、内から湧いてくるものを表に現す、以外の意図や行為が混ざっていればそれは邪魔物、写さなくて良いセンサーにへばりついたゴミに過ぎません。むしろそれを丁寧に取り除く力とセンスと根気、このありなしが作家の力量。

 おもしろいです。
 読書家にこそ頭の整理におすすめ。
 あんまり本読まない方は別にいいです、普段あなたがやってることが言語化されてるだけなので。
posted by ながた at 21:33|

2017年10月27日

本「応仁の乱」呉座勇一




 WW1との類似が最近よく言われますが、なるほど
・誰もやりたくなかったし早く止めたかったけどダラダラやっちゃった
その割に(それだからこそ)
・影響が巨大
という面でよく似てます。
 学校の日本史の時間では、将軍家の跡目問題(弟vs子)に山名宗全と細川勝元が肩入れして……と習ったわけですが(いまは少し違うんですかね)それは起きた事実を「わかりやすくなる形」に持っていくとそうなる、というだけで、ことはそう簡単ではない。
 その「権力争い」というわかりやすい動機が実は無い。

 なにかトラブルが起きた時に、以前あの人の時出ていって加勢したから、この人の時に行かんわけにいかんなあ……と大物が出ると、それが逆側か見れば「誰それまで出てきた!」という大事になる。「ウチの大将を呼べ!」みたいな。実は大将同士は別に仲が悪いわけでもない。といって、二人共「立場」があるので、二人で握手すれば話が終わるってもんでもない。トラブルが長引くと構成員たちの利害が複雑に絡み合って、もう止まらない。最初の目的と違うところで違う相手と勝手に争い出す。
 人間社会によくある風景です。

 で、この騒乱のために、領国を守るためには現地に張り付く必要があって、一旦戦さに参加するために京にのぼった大名たちが、その文化ごと領国へ帰って、でその縮小コピーみたいなのをいっぱい作る。この時期の遺構が発掘されるとおもしろいように当時みなが集った管領家のお屋敷そっくりだそうです。
 この接ぎ木を祖として各地方に文化が独自の花開く。
「「応仁の乱」の前後で日本の姿はくっきり変わった」
という認識がいまでは定説と言っていいそうですが、なるほど今の言葉で言いますと「地方自治」と言いますか、もっと大きく言えば民主主義、
「おらがことはおらで決める」
が否応なしに成立した画期だったのか、と思いました。

 主体性の無い争い事の方が傷跡が大きいですね。
 太平洋戦争の日本とかもそう。
 止めらんない、から国が滅ぶ。

 研究者らしく微に入り細を穿つ丁寧すぎる仕事、それによってちょっと読みづらい、のですが、ともかく、いやだからこそ、「偶然がいくつも重なり合って」という歴史の醍醐味を嫌というほど味わえる本です。
 歴史好きを自認されるならお読みになるとよろしかろう。
posted by ながた at 00:00|

2017年10月19日

本「だめだし日本語論」橋本治 橋爪大三郎




 知らないこといっぱい書いてあっておもしろかったです。
 橋本先生は凄いなあ。

 でも終盤、思わぬところで日本における(近代の)相克を目の当たりにします。

 橋本さんは作家・評論家、橋爪さんは学者(社会学)。橋本さんは使う者として内側から見る、橋爪さんは研究対象として突き放して見る、という違う視点が交錯するところがおもしろい本(対談)です。
 突き詰めて言ってしまえば、使う方としてはぐちゃぐちゃしてる方がおもしろいし、自由度が高くて遊びやすい。研究する方としてはモデル化しにくいのでイライラする。

 たとえば、漢字の熟語としてパッケージされてしまうと、本質を理解していなくても使うことはできる。「自由」とか「民主主義」とか、「愛」とかもそうですね。これ表音文字並べるタイプの言語だ(おそらく漢字導入前のことばだと)といったい何かさっぱりわからないので使う方も躊躇する。しかしその「使うことが(は)できる」というのが、わけもわからずそれを振り回すというおかしなことにつながっているのではないか……
 ことばに限らず概念そのものとしても、つまり中国やオランダや西洋から入ってきたものをですね、ロクに理解もせず肚にも落ちてないくせにPDCAサイクルを回すわけです日本人はね。
 おかしいやないか、と学者は言う。
 しかしそのおかげで今があるのだし、それはそういうものだとして受け入れるしかなかろう、その上でその利益/おもしろさを享受すればよいと作家は言う。

 表(公式)と裏(ホンネ)の二重構造がそこいら中にあって見通しが立ちにくいのが日本の社会の特質であって、それは普段はむしろいろいろ物事が円滑に回る長所なのですが、たまに裏側が腐っててある日突然崩れる。表はきれいなので問題は無いことになっているから、みんなビックリするわけですが、実は以前からグズグズやってた、と後で知る。
 というのが、公式文書(漢文)と非公式文書(ひらがな/仮名漢字混じり)の頃からすでに始まってて、そういう社会だからそういう言葉の構造を受け入れやすかったのか、逆に、そういう言葉の構造を取ってしまったが故に社会がそうなってしまったのか、因果はわかりませんが、まるで写し絵になっている。
 権威と権力を分離する天皇制というシステムが延々続いてるわけですから、元々そういう社会だったのかもしれませんねえ。

「あーもーイライラする!」
と頭を掻き毟る橋爪さん自身、朝鮮王朝のハングル導入については「大失敗」と断じており、曖昧さとそれに起因する効率の悪さは、多様性・寛容さ・楽しさとトレードオフです。そういう「ゆるい」社会は油断できず、安全を突き詰めることもできず、だいたい不便で、不快なこともより多く発生するわけですが、まあそれでも、そっちの方が「まだマシ」なんじゃないかなあ、と、日本語がぜんぜん聞こえてこない木曜夜の心斎橋筋を、小5からの友人と歩くこの本を読んだ次の日の夜です。

posted by ながた at 00:00|

2017年10月17日

本「中央銀行は持ちこたえられるか ─忍び寄る「経済敗戦」の足音」河村小百合




 久しぶりにビデオニュースを観たら、
http://www.videonews.com/marugeki-talk/862/
この河村先生の解説が腑に落ちたので御本も買って読む。てなことがKindleで即できるのもいい時代です。

 現下、日銀が国債を買いまくってて(「アベノミクス」とは端的にはこの行為を指す)経済通の意見は真っ二つに分かれています。
 賛同する方は
「とにかく日本経済にはマネーの供給が足りないのだから、(市中にある国債を日銀が買いあげることで現金を供給するというカタチで)それさえブチ込めばなんとかなる」
と言う。
 反対する方は
「それは実質的には政府債務を中央銀行が肩代わりする『財政ファイナンス』という幾多の地獄を生み出した禁じ手であり(事実法律で禁じられている)、そんなことをやらかしたら後で困るのは火を見るより明らか」
と言う。
 この、
 財政ファイナンス→
 財政規律の緩み→
 紙幣増発→
 円の価値・信用低下→(国債価格の暴落/金利上昇)
 ハイパーインフレ
の流れはなんとなくわかるのですが、現下ではいくら国債を買い込みに買い込んでも上がるはずのインフレ率はいつまでも上がらず、いつの間にか「2%」の目標すらあやふやになりそうな勢いです。
 つまり幸か不幸か「効果がない」ってことは、(まだ)リスクも小さいってことでは?

 違うらしいんですよこれが。
 すごいマズイ。

 どこがマズイかというと、この作戦によって日銀のバランスシートが膨れ上がっています。主に左(資産)の所有国債と右(負債)の当座預金(各金融期間が余ったお金をとりあえず日銀に預けている数字)が膨れ上がる。
 でこの左の国債の金利はべったり低い。ところが右の当座預金は、このような金余りマイナスを含む超低金利が永遠に続くとは考えにくく、いつかは上がっていく。ここで当座預金に(日銀が)利子を付ける分が、国債の利子が(日銀に)手に入る分、よりも大きくなると、つまり日銀が損をする。
 この数字が、たとえば2%ぐらいという十分あり得る数字が付いただけで、年間で7兆ほどマイナスが出る。
 お金を刷ってるはずの中央銀行が債務超過になる、という事態は普通考えられないので、マイナスになった時どうするかって決まってもいないらしいですが、たぶん政府が補填するしかない。
 ただでさえお金ないお金ない言うてるのにですね、ちょっと前の政策の尻拭いに、かなり莫大なお金を突っ込まなければならなくなる。しかもかなり長期間。
 これは辛い。
 要するに先食いをやってるんですよ。お金の。
 財政ファイナンスのもう一つの問題点は、必要/実質以上の高値で国債を買い取りまくることで、売る/借り換える時に大きなコストが遅延発生し、しかもそれが長期間続く、という点だったんです。
 しかもこうなるとお金が無いので身動きが取れなくなって、日銀本来の役割、「通貨の安定」を果たすことが困難になる。

 これはメカニックな事象なので、ハイパーインフレみたいに「ある日突然破綻する可能性が上がる」というような話ではなく、金利が上がり始めたらすぐに直撃する話です。
 だから出口戦略がとても重要で、欧州ECBも米FRBもこの手の金融緩和をやる時には常にいつ終わらせるかをにらみながら、かつその手順や方策を十分に吟味、そしてそれを議会で証言などして人々にも知らしめる努力をしている。
 ところが我らが黒田総裁・安倍首相はこの手の質問に対して「いや出口戦略を語ってしまうと市場心理に影響するから」とかなんとか言って誤魔化すばかり。
 実際は何も考えてないんじゃないの?
 それが証拠に今回の選挙ではアベノミクスともなんとも言わない。さすがに怖くなってきたんじゃないか、とも河村先生はおっしゃる。

 ハイパーインフレ恐怖の方だけだと、私も「そうはいっても世界中で金利が0%近傍に張り付く世界史的異常事態ではあるので(経済や財政が好調なドイツでも同じなので、日本だけの問題ではない)、今までにない動きをするかもしれない……」なんて思ってたのですが、物理的にこうなったらこう帰結する、という地味ながら痛いコストがハッキリして目から鱗でした。

 ちなみにハイパーインフレに直面した終戦直後の日本では、1回限りとは言え財産税(預金から不動産まで一律でかっぱぐ)を掛け、預金封鎖をし円切り替えを行い、強引に掻き集めたお金でなんとか国債を返し切ったそうです。それは終戦直後のドサクサかつGHQの威光を背景にした荒業で、どう考えてもいまできることではなく、もっと地味ながらもっと痛い財政緊縮が続くんでしょうな。それも、東電が潰されずに国民全員の電気代にそのツケを回したように、我々地下の者だけが苦労するようにうまいこと工夫してくれるのでしょう。

 これどうするんでしょうね本当にね。
 あと高値づかみした株あるでしょう日本株。あれもどうするんでしょうね。神戸製鋼の株とか。

 21世紀に入ってから特に2010年代の日本は、やらんでええことばかり一生懸命にやって、時間・お金・人材を浪費し続けている気がします。「やるべきことをやれ」などと偉そうなことは申しませぬ、「なにもしない」という選択肢もあるんではないですかね。
posted by ながた at 00:00|

2017年10月16日

本「10倍速く書ける超スピード文章術」上阪徹




 主には「「素材」(独自の事実・エピソード・数字)を集めてそれを(うまいこと)並べりゃいいんだ」という作戦です。
 確かにそうかな、と一瞬思うんですが、でもよく考えると、人間が何か文章を書かざるを得ない時って、「書かねばならないこと」が既にあるはずで(もちろんその裏返しとして「書かなくていいこと」もある)、それをどう書こうか悩むから時間が手間が掛かる……わけですよね。
 たとえば研究論文とか。
 素材は揃ってるけどどうやったら一番巧く伝わるのかな?という点が悩ましいのではないですかね。
 なんかズレてますかね僕の感想。

 僕も昔はそこそこ速い方だったんですけど、
「速く書ける方法」
をツラツラ考えてほぼ唯一の手法は、
「書きやすいことを書きやすいように書く」
てことです。
 そりゃあたりまえだろう。
 この項自体がその実証で、上のパラグラフで本文に沿った感想文を書き始めて行き詰まったので、次のパラで自分の体験にシフトした。これならいくらでも語れる。
 どう?

 村上春樹先生の読書感想文の秘訣というのが、
「最初それっぽいことを書いたら、あとぜんぜん関係ない話を書く」
だそうで、これも似たような作戦かもしれません。

 そこから導き出されることで、この本にあるような
「ターゲット読者を決める」とか「本当に伝えたいことを理解する」、つまり、
「人に読んでもらおう」
と考えると、これが非常にしんどい。
 しんどいことは止めてしまうのが吉で、オレ・ノートに俺ツエー・ハーレム異世界小説を書き留めるように、好きなことを好きなだけ、書きやすいことを書けるだけ、書いて、あとは利害関係者にダメ出ししてもらって微調整するのがいいのではないか、と思います。
 プロじゃなきゃね。
 いみじくも本編にもありますが、結婚式のスピーチでだいたい泣かせるのは親戚のおじさんやおばさんの本当に心のこもった訥々とした挨拶であり、その前では多少巧いことやってのけようがカスみたいなもんス。いや、巧い分イヤラシイ。
 むしろ読者ポカーンと置いてけぼりでも、なんかこの人はこのことが言いたいんだな、とハートが伝わる方がいいのではないか、と思います。

 ああそうここまで書いてちょっとわかった、この本「速く書く」がテーマなのに最終的に「巧く書く」になっちゃってるんですよ。
 この両者は反比例しがち。
「よりよく伝えよう」と思った瞬間に時間が掛かりがちなので、(なんらかの事情で)「速く書きたい」なら「ついてこれないのは読み手が悪い」ぐらいの飛ばし方でいいんじゃないかな、と経験上思います。

 まあつまるところ、よほどの事情がないかぎり、「速く書こう」とか思わんでええですよ。
posted by ながた at 23:21|

2017年10月12日

本「日本語の源流を求めて」大野晋




 風の噂には聞いてましたがおもしろいですねこの本。
 言語の比較と文化の比較から、南インドのタミル語と日本語との関係を探る、碩学・大野晋の集大成(のダイジェスト版)。
 冒頭の恩師・橋本進吉先生との回想が泣ける。昔の人は本当に勉強を学問をしたんだな、というのを痛感、もう「ああやっとけばよかった」なんて言葉も恥ずかしすぎて口にできない。まだ間に合う若人たちにはぜひこの冒頭だけでも読んで背筋を伸ばされるのがそれからの人生に極めてよろしかろう。

 音素の分解比較の方は、ぼくまるっきり見識もありませんし「そういうものなのかな」で進むのですが、楽しいのはやっぱり文化の方。水田稲作・機織・鉄という基本要素がよく似ていることに始まり、妻問婚(母系相続)、小正月のカラス勧請にとんど焼き、そして墓、そこに刻まれた文様。
 もしも南タミルから真珠を交易に来ていたのなら、いったいどんな生活や取引や交流があったんでしょう。いまデンマークの皇太子ご夫妻が来られてて我らが皇太子ご夫妻と旧交を温めておられるのですが、そういうほのぼのしたものだったんでしょうか。それとも、現代の商社マンと現地生産者みたいなビジネスライクなものだったんでしょうか。文化が根づいて・残るってことは比較的友好的なものだったんではないかと想像します。いやまあ我々も原爆落とした国の音楽聞いて食べ物食べて作業服着てるので、そこは関係ないかもしれませんが。

 古代ロマンてのは「わからないからいい」ってところもあって、その方が想像し放題。向こうから来たスーパースター・ラジニカーントみたいな濃ゆい男前(『ムトゥ 踊るマハラジャ』はタミル語映画だそうです)に一目惚れした大和撫子(さて弥生系シュッとした美女なのか縄文系くりくり可愛い系なのか)が帰郷しようとせん彼について行くの行かないので大騒ぎ……
 ええですな。
 先日サッカーの代表戦で来てくれたハイチ代表のエリボー君、お母さんが日本人で吹田生まれボストン育ち「めっちゃ」が口癖、という見た目もライフヒストリーももう「どこの人」とか分類できんわけですが、国境も無かった頃にはそういう人たちがいっぱい居たんでしょうねえ。
 いいですねえ。

 私たちは学者ではないので、この説が本当(事実)かどうかには実はあまり興味がなく、それよりもこうしていろんな夢を見られることの方が重要です。こういう、人の想像力や創造力を引っ張り出す仮説こそ優れた仮説と言えますまいか。
 それを打ち破るにはディテールの揚げ足を取るのではなく、さらに夢満載の魅力的仮説を提唱することで行っていただきたい。(もちろん身も蓋もない証拠が突きつけられればしょうがないですが)

 おもしろい、ってことはとてもだいじなことですよ。
 大野先生のごとく、88になってもその気持ちを持ってられるかなあ?
posted by ながた at 21:57|

2017年10月11日

本「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ




 NHKの「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」の本放送を観て
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=11917
「あっこの人はおもしろい人だ」と思って買って2年ほど積ん読。慌てて読んだ。
 祝ノーベル賞ー。

 まず書き手の端くれ視点で言うと本当に巧い。
 本当の巧さというのはどんなジャンルの技芸でも「なんでもないように見える」ものです。大ネタ1つであとは標準的なユニットを普通に使ってるけど、ドーンと来る。これが凄い。
 料理でいうとジェノベーゼで、めっちゃ美味いんだけどなんだこれはと。厨房覗くとディチェコの乾麺とボスコのオイルだ。なぜだこれは。
 どうやって作るんだ?
 いや違う、作り方はわかってる、なぜ俺に作れない?
 これがまず怖い。
 凄い素材使ってる、とか超絶技巧が凝らされてる、方がよほどマシ。諦めがつきますからね。

 大ネタのネタバレが1/3時点、というのも憎い。
 そこまでは「ああなにこれなにこれ」と思いながら読み、そのあとは「あああそっちいったらあかんそっちいったらあかん」と思いながら読む。一ネタで二度美味しい。
『こころ』とか『この世界の片隅に』とかもそうですね。前か後ろの1/3ぐらいのところでガシャッと世界が変わる。

 その大ネタも原版発表が2005年ですから、もはや手垢がついたというかむしろ現実が追い越してしまってる古いネタです。そこを逆手に取って堂々と「もしそういう世界だったら?」と訴えることで、さらに逆に「倫理」的な問題に対して普遍的な問いになっている。
 こうはならなかった現実はしかし、またいつでもこうなりうる。
 それが怖い。
 いや、いま動物たとえば牛や馬、犬や猫に同じことをしてないか?
 なにが違うんだ?

 SFやファンタジーは舞台が日常とは大きく変わっているけど、人間とその考え方はだいたい現代と同じ、という風に組み立てるものです。しかしこれは逆、舞台は寄宿舎の日常でありながら、人間の考え方そのものが変わっている。
 死生観というおおもとの部分を改変されてしまうと、人間が人間でないように見えてくる。
 これも怖い。
 ぜんぶ「死ぬ」ではなく「使命を果たす」って言うんですよ。
 怖いでしょう?
 クルマで1時間以上掛けて荒れた湿地へ小さな難破船見に行くんですよ。それがレクリエーション、お楽しみ。隠喩抜きにしても嫌でしょう? でもリアリティあるんですよ本編では。

 エリス先生、「昔、名を馳せた老婆」ってのは本当に怖い、というのは現在の日本でもよく見る風景ですが、いや本当に怖い。マダムの方がよほど人間としてわかりやすい。

 いま振り返ってみても特別なことは何もしてないのですが、全体として特別なものになっている。これぞ小説。
「文学とは」という問いに、いま仮に「『人はなぜ生きるか』を問うもの」と答えるなら、この作品はまっすぐに問うてます。人ではない人、人ではない人にされている人でしかありえない人、の語りを借りて。
 ここもたぶんにメタ的というか、表現難しいんですけど、変化球のようでストレートずどん、という感じ。
 逃げられないんですよね。ハムレットが「to be, or not to be」と呟く時にしかし僕らは他人事、なわけですが、これはそういう「これはこの人の話」という意識の逃げを許さない。なぜというならキャシーはわたし自身だから、です。
 こんなに境遇がかけ離れている人物を、まるで自分(読者)のように、自分でしかありえないように思わせる、そのように描く、これが凄い。そして怖い。

 お若い方に「『小説』とやらを読みたいのですが、一冊読むとするなら」と尋ねられたら、いままでだったら僕は「『こころ』」と答えてましたが、こっちにするかもしれない。読みやすい上に普遍的だから。

 読み終えたあと「ああ、生きててよかった」と思える本は、いい本です。
posted by ながた at 04:26|

2017年10月10日

本「もうレシピ本はいらない」稲垣えみ子




 まずツッコミどころからいきますか、とりあえず
「まあ、お一人やったらねえ……」
 ウチの奥さんも結婚前はひとり暮らしあるいは実家で料理してたんですけど、「僕の分まで作らないと」と思ったらこれがしんどい。
 またウチの母も僕の分作らなくて良くなったので腕の振るい甲斐が無くなって寂しいのかなと思いきや「何も考えなくて良くなったので楽」とこうおっしゃる。
 僕自身もちょっと疲れてたりする時には、自分ひとりなら袋麺を茹でて啜って終わり、のところ、待ってる人が居ると思うとせめておかず一品でも、と思ってしまいます。(もちろんホンマにしんどい時は「なんか食っといてー」と言って寝ますが)

 つまりその、ひとりだったらなんとでもなる。
 レシピなどで困ってる人っていうのはだいたいひとりではないんだ。

 2点め、読み進めていくと自家製のぬか漬けが出てくる。
 ぬか漬け!
 いやその恐怖心先入観固定観念こそ取り払うべきものなのだ、と作者は力説されてますが、子供の頃からぬか床がどうにかなって
「あーもう!」
と嘆く母の姿を見続けてきますと、とてもとても半端な気持ちで取り組むべきコンテンツだとは思えない。
 ぬか漬けが象徴的なんですが、ぽろりぽろりと「いやそれはめんどい」ということがサラッと書いてある。
 朝早く起きて3日分のお米を炊く
 それがもう無理。
 それをおひつに
 おひつ!
 あの油断するとすぐカビて洗いにくく干す場所もなく置き場所にも困るあの食卓の総大将を、わざわざお使いになる!
 このへんで
「あこの人本質的に料理好きなんだな」
と悟ります。
 つまりレシピ本ではありませんが料理本なので(あたりまえか)、「食い物のことに困っている人」への福音書ではなく、普通に料理好きの人に対して「ミニマル食卓」を提案する書。その意味では以前ご紹介した土井善晴先生の『一汁一菜でよいという提案』の類書です。
http://rakken.sblo.jp/article/177913078.html



 あと佐々木俊尚さんの「家めしこそ、最高のごちそうである。」
http://rakken.sblo.jp/article/98136686.html



 稲垣さんは以前は、家族や同僚がお祝いといえば調理器具を贈ってくれるような料理好きで知られた方で、文字通りレシピ本に埋もれて暮らしていたそうな。その日々は決して無駄ではなくて、その時反復練習した整った味のレシピたちが、その場アドリブで味加減する時の暗黙知データベースになってると思います。
 そんなもん「ぬか漬けを炒め物にちょっと入れると味に深みが」とか言われたってわれわれビギナーズは「あー怖い怖い怖い怖い怖い」ですよ。(まあそれが怖いとわかるのも経験のおかげですが)

 逆にいうと、ここに描かれている食生活が本当に豊かだ、という事実は、なによりも本人が楽しそう、というエビデンスによって保証されています。その点嘘偽りはない。
 クックパッドの人気メニューを無造作に並べた雑誌をめくるよりは「おいしいもの作ろう」スピリッツは湧いてくる。

 余談ですが最近、クックパッド・システムって集合知(らしきもの)の弱点をさらけ出してて、「おいしいレシピ」じゃなくて「会員が反応しそうなレシピ」が上位に来るんですよ。
 具体的にいうと砂糖使いすぎ。
 みんな甘いの好きやなあ……
 さすがに2年近くやってると多少勘も芽生えるもので、「いやこの内容で味醂も砂糖もは多い」と思って減らしてちょうど、みたいな。
 選挙とかPOS商品管理とかなんでもそうなんですけど、ここの乖離が現代のいろんな不幸のもとではないかと思い、また逆に考えれば、AIとか短期的にはたぶんそれしかできない(「会員が反応しそうな」を探す)ので、「おいしい」を作れる人の希少価値は変わらない気がする。

 繰り返しになりますが、「一粒食べれば一日元気な「仙豆」みたいなものがあればなあ」と妄想するような方にはオススメできませぬ。
 逆に「おひつご飯」「ぬか漬け」「干し野菜」「アレンジ味噌汁」「ストウブ」「ダッチオーブン」などといった単語にピクッとなる料理好き向けの書でございます。
 おもしろかったです。

 やはりそろそろストウブかル・クルーゼかバーミキュラの鍋をひとつですね……またそこから行く。
posted by ながた at 16:17|

2017年09月29日

本「福島第一原発 1号機冷却「失敗の本質」」NHKスペシャル『メルトダウン』取材班




 固唾を呑んで見守ったのが昨日のことのようです。
 何回か書いてますが僕はその昔部活(ブラタモリ部)でちょっとだけ原発のメカを齧っており(チェルノブイリ事故の直後だったのです)、その夜、確かニュースで「ECCS(緊急時炉心冷却システム)が作動している」と聞いたもんですから「ならたぶん大丈夫だ」とちょっとだけホッとした記憶があります。
 1号機のIC(通称イソコン)がECCS扱いではない、なんて当然知りませんでしたし、2号機3号機のECCS(にあたる装置)も時間稼ぎしかできずパーマネントに作動するものではない、とも知りませんでした。
 つまり何も知りませんでした。
 いやそりゃあんたは素人なんだからそうだろう、と。でもプロは、といえばこれがまた知らない。
 あまりにシステムが巨大すぎ複雑すぎ、かつ40年という長きに渡って続いていく技術なので伝承が極めて難しい。
 その模様が克明に描かれています。

 具体的には前述のICですが、これは電力が不要で蒸気の力で動くために、緊急時にまず一発目で回る冷却系、という設計だったそうです。建造中や運転開始直後に試験運転してる様子を観たOBの証言がある。
 ところがいつの間にか動作確認の試運転はやらなくなり、かつSR弁という別の安全装置が先に動くように設定替えされている。それをそのOB(勤務地は当然変わっていくので、ずっと1Fに居たわけではない)が聞くと「えっ」という反応。「そんな重要な変更をするなら技術提案書とかなんとかがあるはずだけど……」もちろん無い。正確に言うと記録が無いからそういうものがあったかなかったかもわからない。どんな議論がされたかあるいはされてないかもわからない。

 結局、苦心惨憺消防系から入れた水は、あっちこっちで分岐して他所に流れ込み、ほとんど炉心に入らない。「この系統なら入るはずだ」の知識まではなんとかあるんですけど、その先、分岐先を実際に止めてる弁が地震や津波あるいは水素爆発によってどう変化しているか誰も知らないので、ダダ漏れに気づかない。

 無理でしょう?

 印象的だったのは人類開闢以来、巨大官僚システムで脈々と受け継がれるキャリア・ノンキャリア方式が原発でももちろん採用されており、吉田所長(キャリア)は運転のことを何も知らないんですね。それを統括するのは当直長(ノンキャリアのあがりポジション)で、ここに大きな断絶がある。1号機の水位計が一瞬だけ復活した時、水位が通常よりえらい下がってるので、それはつまりICが動いてないってことではないか、と現場は不安に思い連絡もするんですけど、中央はその重要性を理解しきれずにそのまま放置してしまう。
 そうこうしてるうちに2、3、4号機が次々に危機を、それも違うタイプの危機が訪れて1号機のことを忘れる。
 不眠不休で72時間経つとどんな人間もだいたいなにもできなくなるそうで、吉田所長倒れる。代わりは居ない(用意されていない)。

 無理やと思います。

 巨大システムの本場・アメリカだとそのへんはもうちょっとしっかりしてるようですが(そのあたりも本書で)、といっても彼の国もお大事のスペースシャトルを5機中2機も爆発四散させており、ある閾値を超える大きさと複雑さのシステムは、人間には根本的に扱い切れないものなのではないですか。
 物理的、機械的な面はもちろんながら、上述のような官僚機構による意識・情報の断絶はもはや手の打ち用もない。本書にあるように、所長以下関係者に知識・経験・士気すべて揃っていても、巨大システムはそれ自体生き物のように崩壊・暴走し、それに対して人間は無力。

 無理。

 たかが電気を起こすだけのもので他に代替手段はいくらでもあり、かつ代替手段の方が遥かに安くつくこのご時世です。
 ご存知ですか今ドバイやアブダビのメガソーラー、kWhあたり3円ですよ。デンマーク沖の洋上風力でも6円。太陽光や風力は装置産業なので、装置が量産されると劇的にコストが下がるんですってば。
 あなたのご家庭がいまkWhあたりいくら払っているか検針票ご覧くださいな。しかも今の時点でこの事故処理に8兆掛かってて、これからいくら増えるか見当もつかない。これわたしらの電気代でこれから返しますからね。

 最近、理性や知性は想像よりずっと限界値の低い能力で、これに頼るのはパフォーマンス的にも効率的にも良くないんじゃないか、と思います。後世、長い20世紀は「過度に人間の理性と知性に頼りすぎた世紀」と呼ばれるかもしれません。
posted by ながた at 00:10|

2017年09月14日

マンガ「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」1-24 安彦良和




 遅ればせながら読み終えました。
 ファースト偉大ですよね。

 あと富野監督。言うまでもないですが。
 ア・バオア・クー戦を理屈で詰めるとこうなるはず、というのが、
「あの時点で連邦の宇宙兵力は(ソーラ・レイの被害もあって)たいしたことないはず」
「補給もままならないので博打」
「艦隊を普通に並べていても要塞には太刀打ちできないので、MSを突っ込ませて内部から破壊」
 つまり二〇三項地みたいなもんだと。
 でもアニメ本編ではDデイか硫黄島の戦いのような印象ではありませんでしたか。圧倒的な物量で押し潰す感じの。
 ここがドラマツルギーというか、苦労に苦労を重ねたホワイトベースが最後の戦いには圧倒的軍勢の旗頭になっている、というのが視聴者のカタルシスを得る。エンタティナーならばそう演出してしまう。
 でもその熱狂が醒めてしまうとふと、
「あれ、じゃあのソーラ・レイって結局そんなに実害はなかったの?」
みたいなことになるではないですか。「1/3沈めた」と劇中で説明されてるのに、それで押し込めるんだから。

 というようなファーストが勢いと富野ケレンで良くも悪くもごまかしてたところが丁寧に均されていて、ただただすごいなあ、と思いました。
 やっぱりちゃんとした絵を描く人だからちゃんとしてないと気持ち悪いんでしょうね。

 というその御真筆ももちろん堪能できます。
 ワタクシゴトですがわたしブロンドコンプレックス持ちで自分の作品にはだいたい金髪が配備されるのですが、どこで培われたかと言えばおそらくメーテル(『999』)とアルフィン(『クラッシャージョウ』)とセイラさん(『機動戦士ガンダム』)であり、つまり後二者は安彦キャラであり、どう責任取ってくれるんだ!ありがとうございます!
 いまだに好きなプリキュア挙げろと言われたらピーチ(金髪)とフローラ(金髪)で悩む有様やからな……
 もちろんシャアとガルマのBLもあるよ。
 あとザビ家全員大活躍なのでザビ家ファンにはたまらない。
 マ・クベも超カッコイイ。ランバ・ラルは言うまでもない。
 でも、こんな風にジオン側が魅力的に描かれすぎると、今も
「あれはいいものだ」
「ザクとは違うのだよザクとは」
という言葉が流通してたかどうか疑わしい。
 だいたい名セリフというのは「この人ならばこう言うだろう」ではなく、唐突に何言ってんだこの人、みたいな方が印象に残るものです。

 まあ偉大な作品ですよファーストは。
 エポックなアニメと言えばその前に『ヤマト』その後に『エヴァ』がありますが、両者がその作品世界から離れられなかったのに比し、『ガンダム』は今もなお、多種多様な世界を創造し続けています。世界のガンダムが闘ったり。プラモで闘ったり。
 お台場に実物大が立った時、みんな拝みに行きましたでしょう?
 僕も行きました。
 なかなかね、そういうことを起こせる作品て、無いです。
posted by ながた at 00:00|

2017年09月12日

本「バイトやめる学校」山下陽光




「えっ?なに?」という表題ですね。
 バイトしながら「どうやったらやりたいことをやれるのか」「そもそもやりたいことがわからない」と悩んでいる若者向けに、似た環境に居た山下さん(自分で作って売る服屋さん)が語る、大まかな考え方から細々した実践まで。
 だから「バイト(を)やめる(ノウハウを学ぶ)学校」。
 ただ「頑張れ」もしくは「がんばらなくてもいいんだよ」と言うだけではなく、非資本主義的な思想と実践がポイント。

 丸めて言ってしまえば「ニッチ見つけろ」「無ければ創り出せ」になると思うのですが、それってでも実は非常に資本主義的なモノの考え方、言い換えればお客様目線が必要になるので、若干そこに矛盾があるような気がせんでもないです。
 いや、お客様目線が先にあってあとから資本主義がやってきたんだから、その指摘は当たらない(流行り)、かな?
 ともあれ、悩んでる人って「自分」の殻に閉じこもり「目は開いてるけど何も観てない」ということが多いので、多少強引にでも「他者」の目線を意識させると、道が拓けるかもしれませんね。

 先日のエントリでも書きましたが(資本主義に限らず)経済で利益を得るキモは「関所を握る」ところで、いかに今をときめく大会社(これがだいたい関所)に勤めて年収が何千万あっても勤め人である以上は賃労働に過ぎず、取り替えが効くので、ある日AIに席を奪われる恐れがあります。
 それが嫌なら自分が関所になるしかない。自分がデザインした服を売ればそれが欲しい人はその人から買うしかなくなるので、無事儲かります。
 でもその関所づくりが、難しいんですよねえ。

 たとえばコンテンツ屋なら「質が高くて」「他になくて」「広まりやすい(あるいは広めるための仕掛けがある)」などがその条件になるのでしょうが、そういうのって普通に関所システムに乗りやすいので普通に流通して普通に儲かる。web媒体で火が点いて書籍化してヒット、なんてもう死ぬほどある。

 ところがここで、
「いや待てよ、利益を得るには関所化が必須なら、利益を捨てれば関所化しなくてもよいのでは?」
という考え方に至ると、ぐわっと視界が広がります。
 もちろん利益マイナスだと持続可能性が無いわけですが、それですら評価とかお米現物とか補助金とか、なにか別のものに外部化できれば、成立するかもしれない。

 価格と価値は別物だ、と我々はよく知ってるはずで、しかも昨今は技術のおかげでそれが加速しています。よく引き合いに出しますがスマホゲーというのはまったく同じ価値のものが誰かにとっては100万円の価格、誰かにとっては0円の価格、をうまいこと実現できたケースです。
「価値を高めないと価格は貰えない」
という思い込みから離れるだけでも、可能性は広がる、かもしれません。

 かもしれません・かもしれません言うてるのは、もちろん僕はうまいことやったことないから、かもしれません(笑)
 なんかうまいことお金儲けたら、それを本に書きますわ。期待して待て!

 でも案外お金稼ぎも、
「いやなんとなく『やってくれへんか』言われたことをやってたらこんな感じに……」
みたいな他力なケースが多いような気もしますね。なんとなく。
 南無阿弥陀仏。
posted by ながた at 23:00|

2017年09月09日

本「蚤と爆弾」吉村昭




 食卓で本書を読んでいますと妻に
「……嫌なタイトルやな!」
と目を剥かれました。
 タイトルどおり嫌な本です。
 細菌兵器に人体実験、そしておなじみ「悪の凡庸さ」。

 ペスト菌をバラ撒くにはどうすればいいのか、って東大京大出のスーパーエリート医学者が知恵を絞る。
 そうだネズミに感染させて野に放て。
 いやうまく定着してくれない。
 だったら蚤はどうだ。
 これはいけそうだ。
 だが蚤なんかどうやって運ぶ?
 地面で割れる陶器の容れ物に入れて空中から……
 その奮闘模様は妙にコミカルで、『WBS』や『ルソンの壺』で紹介されてもおかしくない感じ。細菌兵器の開発でさえ無ければ。

 吉村先生はいつもこの、近代の病とでもいうべき
「仕事が細分化されたがゆえに、一人ひとりが何をやってるかわからなくなって、総合するとえげつないことをやっている」
を徹底的に描きます。傍目から見れば狂気、しかし当人たちはただ真面目。
 なぜこの没入が起きるのか。一人の人間として感情や感覚が吹き飛び、ただ業務マシーンとして壊れるまで動くのか。それは逃れうるものなのか。それとも人間はそういう生き物だから、システムであらかじめそこへ陥らないように制御しておくべきなのか。
 21世紀になってだいぶ経ちますが、まだ答えはぜんぜん出ていません。
 とりあえず我々にできることといったら、こういうケースをたくさん見て知って、なんとなくおかしなことが起きていたら「これはあれちゃうか」と違和感を感じられるようになっておくこと、ですかねえ。

 でもこれは恐らく人間にとって一番指摘されたくないポイントなので──なぜなら自分の生き方は自分で決められる、と思い込むことがこの不安な人生を生きるための大きな武器であるとこれまた思い込んでいるから──誰も見たくない。石井四郎を極悪人に仕立て上げて目を逸らす。
 そうではなくて彼は普通の人で、彼が居なくても誰かが彼の代わりをした。

 今夏NHKで『731部隊の真実 〜エリート医学者と人体実験〜』
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170813
という作品がありました。副題のように医学者にフォーカスを当てておりご想像よりも見やすいものだと思いますので、未見の方はオンデマンドでぜひ。
posted by ながた at 23:00|

2017年02月24日

本『ものぐさ精神分析』岸田秀




唯幻論すなわち「ぜんぶ幻想」の岸田先生の出世作です。

僕も「人生なぜ苦が多いのか」と考えてとりあえず得た結論が
「想像力を持ってしまったから」
ではないか、と思います。
想像力というのは人間にとって極めて強力な武器で、これがあるからこそ稲を育て暖かい服と家を作り酒を呑んでお祭りができた。
しかし武器というのはだいたい諸刃で、このために「いつか絶対死ぬ」という厳然たる事実をいつでも想起できる、いや、してしまうようになったので、結果
「いつか死ぬならなんでこんなことやってんだ?」
と悩み始める。これが死に至る病、キリスト教でいえば原罪ではないか、と思うんです。

最近「マインドフルネス」という単語が、小粋なウェブ記事や書店のフェアコーナーで踊ってますが、あれ僕まだちゃんと理解できてないんですけど、
「テンパった時にいま現在にフォーカスを当て直せ」
というのが具体的メソッドの中心にあるっぽいので、つまり、
「想像力のスイッチを切れ」
ということではないかな、と我田引水。

情報が無い時代は、それでも「想像力」はメリットの方が多かったのでしょうが、こんなに情報が溺れるほどあると、現実の自分にとって縁遠いことでも、思考、感情、感覚のスイッチが入ってしまって貴重な脳パワーを浪費します。
脳は糖喰うので、あんまり使わない方が良いんですよ基本。
疲れると、疲れるので、また疲れる。悪循環。

とりあえずこの、核兵器のように手に余る想像力とこれからも延々付き合わねばならず、そのやり方は各自自分にあった「やり方」を持っといた方がいいように思います。
その点で、「ぜんぶあんたが勝手に見てる幻だよ」と言い切って次から次へと世界の諸相を斬って斬って斬りまくるこの御本は、いいスイッチになるかも。

ちなみに僕は身体性回帰。頭の中がややこしくなってきたら、冬空を高速で散歩したり、小チャーシュー煮玉子ネギに餃子一人前を掻っ込んでみたり、熱い風呂に入ったり、ネコを撫で回したり。
「……いやあまあ、いろいろあるけど、生きてるっていいなあ」
と実感すると、幻の世界から帰ってこれます。
これが効かなくなってくると本当にマズいので、そうなったら全部投げ打って寝る。若いうちなら2年ぐらい寝るとなんとかなります。
歳をとってたら? それでも基本は(外界を遮断して)喰って寝ることではないですかね。
鬱は生命維持のための強制シャットダウンなのかなあ、と思ったりも。
流行りのミニマリズムとか、若者の○○離れとかも、その人なりの想像力の整理法ではないでしょうか。
posted by ながた at 02:02|

2017年02月18日

本『ビジネスエリートの新論語』司馬遼太郎



映画『この世界の片隅に』をご覧になって、「これは原作を!」と慌ててマンガをお求めになった諸賢、すっかり「こうのワールド」に浸りきって「もっと」とばかりに以前の作品を買い求めますと、
「あれ?」
と思う。直前の『夕凪の街 桜の国』は別ですが、それ以前は市井の地味な女子のちいさな生活、のお話が延々と手を替え品を替え続いていく作品ばかり。つまりこうの史代は「こういうもの」を描く人だったわけです。それが『夕凪──』で突然化ける。

本名・福田定一で刊行した『名言随筆サラリーマン』が元になる本書、前半は、古今の名言をサラリーマン生活に引っ掛け、自嘲気味ではありつつも「諦めてはいけません」と諭すエッセイです。
今でも団塊世代ぐらいなら喜んで読みそうな、逆に言うと僕ぐらいからするとかなり退屈なスタイルで、
「て、天下の司馬遼太郎も若い頃はこんなものか……」
と残念な気分になる。
確かに、引っ張ってくる名言の幅の広さや例え話の多様さに、のちの司馬風をかすかに感じるのですが、有り体に言っておもろない。
『街道をゆく』43巻はもちろん全読破、好きな小説を一本挙げろと言われれば迷いつつも『坂の上の雲』を挙げかねない熱心な司馬ファンの私ですら(記念館だって行ったことあるよ!)
「もういいかな……」
と途中飛ばし読みモードに移行したほどです。

ところが。
第二部「二人の老サラリーマン」が始まって数行、声を上げる。
「……し、司馬遼太郎だー!!」
まごうことなき司馬遼太郎がすでにそこに居るのです。いやぜんぜん、最晩年のエッセイと言われても普通の人だと区別付かないぐらい、のちの「あの感じ」そのまんまです。

冒頭こうの先生の例を引きましたように、作家というものは「パチッとハマる最後のピース」のようなものがあり、それはテーマだったり文体だったりモティーフだったり、何かはわかりませんがそれを掴んだ瞬間、別人格が生まれいづるつまり、福田定一が司馬遼太郎になる。
作家の「羽化の瞬間」などなかなか見られないメタ娯楽です。初期作品集でだんだん上手くなっていくのを温かく見守る、とかそういうレヴェルではない。その意味では司馬ファンにはもちろん、「クリエイティブとはなにか」というようなテーマに興味のある方にも、おすすめです。

「自分の視点を持つ」人にとって、「いろんな視点からものを見る」必要のある新聞記者はたぶん辛い仕事で、しかしその仕事で内部のガソリンを十二分に圧縮したからこそ最後の火花ひとつで爆発した。
人生何が起きるかわかりませんな。

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posted by ながた at 16:22|

2017年02月17日

本『ヤバい経済学 [増補改訂版]』スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー



人々の行動をインセンティブ(動機づけ)を元に解析する、これこそが経済学。いまや(日本でも)類似の書物は多いですが、よい「問い」を立てること、ここがだいじ。本書では

・先生と力士のインチキ
・KKKと不動産屋の情報の非対称性
・ヤクの売人は底辺労働
・中絶と犯罪の関係
・子育てとは何か

「たぶんそうだろうな」とボンヤリ思っていたことを、データを上げて突き詰めていかれるとスッキリするもの。
(もちろんそれが「真実」かどうかはどこまでいってもペンディングなわけですが)

たとえば子育ての例ですと、カリフォルニア州にはある子どもがどんな家庭で生まれ育ちどんな人になったか、の膨大なデータがあるそうで、それを解析した結果導き出されたのは重要なのは、
「親が何をしたか」
ではなく
「親がどういう人か」
だそうです。
身も蓋もないですね。
(もちろんフォローとして、酷い親と酷い環境で育った不良黒人少年がハーヴァードの若手教授になり、素晴らしい親と環境で育った天才白人少年がユナボマーになった事実も挙げられているのですが)

世の中というのはわりと「身も蓋もないこと」ばかりでできており、しかしわりと、みんなそれを認めたくない。
なぜかはわかんないですけど、「無限の可能性」をいつまでも担保したいんですかね。
ここに、商売人や悪い人、利権を拡大したい人につけいられる隙がある。
で、そういう人たちはお金があるので、お金を使って、身も蓋もないことから人々を遠ざける、気づけ無いようにする。
もちろんこの本も違う何かから目を逸らせる目的で書かれた本かもしれません。たとえば……ほとんどの経済学者はわりと役に立たない、とか。

ともあれ、「通念」と聞けば疑ってかかりたくなる、のが科学者の資質、のはずですが、今の世の中そんな本質的なことを言ってるとポストと資金が得られないので、まああんまり人様には期待せず、自分で疑ってかかるとよいと思います。
めんどくさーいですけどね。

1点書物として文句をつけるなら編集が悪い。
同じ内容が何度も繰り返されたり、データの並べ方が過剰だったり足りなかったり。ライター(ダブナーさん)が批判されたそうですが、それは「中身が全部レヴィットの頭の中の話じゃないか」という意味じゃなくて、「おまえもうちょっとちゃんとまとめろよ」という意味だと思う。

でも、おもしろかったです。

posted by ながた at 16:22|

2017年02月15日

マンガ『それでも町は廻っている』16(完)石黒正数



新刊二念無く買い作品のひとつ、『それ町』が終わってしまいました。「らしく」ちょっとズラした終わり方で、ニタッとします。
歩鳥と真田、タッツンのゆる三角も(案の定)そのままでしたしね。
でも「シーサイド」の変化だけで、ひとつの季節(祭り)の終わりがずいぶん綺麗に描けるもので……うまいなあ。

ミステリ(探偵)、SF、怪奇、ファンタジー、ご近所もの、人情噺、もちろん学園もの、ラブコメ……と、「いろんな角度で楽しめる」のが『それ町』のいいところ。「狭く深く」がますます先鋭化していくオタク・コンテンツの中で、今も異彩を放っています。
専門店街に洋食屋があって、ハンバーグやエビフライを食べさせてくれるような。といってファミレスよりはだーいぶ美味い。
オサレカフェも、頑固職人の手打ちうどん屋もいいんですが、「わが町」に欲しい店は、実はそんな店ではないですか?

一話ごとに時間軸が前後するのも新鮮でした。
ヒロインの髪型変わるだけでずいぶんインパクトがあるもんです。
(余談ですがこれけっこう難しいんですよ。僕の『ミラクルズ!』もそうなんですけど(刊行順と劇中の時間の流れがバラバラ)、設定忘れたりしてよくジェロニモが二人います。石黒先生はそういう「巧さ」をサラッと使うのがにくい)

なんだか10年ぐらいして他の作品をいくつか描いた後(というか今も『木曜日のフルット』とか別の描いたはるんですけどね)、しれっと17巻が出そうで、しかも読者もなんの躊躇いも抵抗もなく「ああ新刊だ」と手に取りそうです。
アニメもよかったですよ。マンガと絶妙の距離感で。
posted by ながた at 05:02|

2017年02月14日

本『ヘリコプターマネー』井上智洋



あいかわらず不景気ですな。
不景気慣れしすぎちゃって、今が不景気かどうかも判然としないのですが、GDPも実質賃金もベッタリ地を這い、なによりも身の回りでお金があんまり動かないところを見ると、不景気なんでしょう、きっと。
いや僕が貧乏なだけかな。
で、この御本。

・お金をバラ撒けば景気はよくなる
・その原資は(銀行から信用創造を取り上げて)政府が直接お金を刷れ
・それをBI(ベーシック・インカム)みたいな形で家計へ直接ぶち込め

僕個人的にマクロ経済学はほとんど信じておらず、特に
「ひとびとがインフレ予想をするとお金を使い出す」
など人間の心の動きを持ち込みだすと、そこから生理的拒否反応が出て目が泳ぎ出してちゃんと読めません。
だもので間違って読んでるかもしれません。

1番めと2番めに関してちょっと知識のある人なら
「それをやると(例:軍部が軍事費のために)際限なくお金刷ってハイパーインフレが起きて終わるからだなー」
と疑問を持ちます、そこにさらっと「インフレターゲットを目標値にすればいい」とか「そのお金はBIにしか使えないようにすればいい」と言われても、「いや幾多の悲劇を乗り越えた末の妥協案が、現在の中央銀行システムであって」と反論したくなりますね。

ということはつまり、ここ、すなわち「政府がアテにならない」ってことこそが経済政策のボトルネックであって、政府がアテになれば(十分に信頼できれば)どうにでもなるんじゃないでしょうか。
日本の現状だって、じゃぶじゃぶ注ぎ込まれてるはずのお金を、人々が、そして企業が使わないのは、結局先行きに不安があるから、で、その不安を(ある程度でも)解消できるのは(もちろんBIも含めて)政策しか無い。
のかな?

それから、BI自体には大賛成ですが、あれもやってみればいま想像するほど魔法の杖ではない気がします。そもそも貨幣経済になじまない性質(お金を使うのがヘタ)とか、お金ではない部分(たとえば健康)での疎外、というのは解決してくれない。そしてそここそが「生きる」つらさ。

具体的なイメージはしづらいのですが、個人的にはBIが成立するより前に、「お金の価値がかなり低い」という状態が来ちゃって、BIと同じ効果が出ちゃう……ような気がします。
結局「暮らし」がそこにあって、人間はそれを越えることができません。
かつ、それに掛かるお金はもう随分前に(80年代中盤ぐらいで)実はサチってて(天井に突き当たってて)、付加価値みたいなところを一生懸命信じ込むことで、なんとか掛かってしまったお金の意味をごまかしている。でももうそろそろ限界。
つまり分配の問題で、総量の問題じゃないんじゃないかと。
で、その「分配」となると政府があてにならない(官僚制が自分のパートの部分最適化を志向するものであるのは物理法則つまりどうしようもないことなので、政府という組織に全体最適化を期待するのが間違っている。それは技術や知識が進めば進むほどむしろそうなる)ので、ああ、まあ、そりゃどっちにしろBIにするしかないですね。
「社会保障の文脈ではないBIの必要性」が初めて腑に落ちました。

ということで、各論はまったく理解できないのですが結論は賛成、というけったいな読書体験をしました。
わたしの理解力が足りないからかもしれないので、どうぞ気になった方は読んでみて下さい。

posted by ながた at 16:22|

2017年02月04日

本『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』 ブレイク・スナイダー



 みんな忘れてるかもしれないけど私脚本家なのよ?
 はいもう忘れてください。

「脚本術の本」は実は結構(黙って・恥ずかしいから)読んでいるのですが、正直あんまり役に立った記憶がありません。でもこれはちょっと違う。さすがベストセラーそして(当時バリバリ)現役ハリウッド脚本家。

 戦争(制作現場はだいたい戦場です)には「戦略・戦術・戦法」のレベルがあるとよく言われますが、その「戦術」のレベルで参考になる。
 脚本の人間のみならず、制作現場の人ならDやPはもちろん、役者さんプログラマ絵描き音屋エンジニアから制作広報、どなたでも目を通しておいて損はなし。
「なんか一味足らんな……」
という時にパッと開くリファレンスになる、やも。

 村上龍先生だったかな、がおっしゃってるのですが、
「つまるところ『崖から落ちて這い上がる』」
 脚本というのはそれだけのことです。
 が、それだけでは心許ないのでスナイダー先生が具体的に・詳細にまとめたのが(悪名高い)15ブロックの「ビート・シート」です。これを埋めていけばちゃんと一本できるようになっている。
 まさに必殺虎の巻。

 なぜ悪名が轟いてるかといえば、ご想像どおり、構造が同じ、ということはつまり、おんなじようなものしかできないからです。
「ハリウッド映画はつまらん」
は、たぶん昔から言われてることなんだろうと思いますが、「映画館で映画を観る」という行為が相対的にえらく贅沢なものになった現在、「かけたコスト分ぐらいはリターンが欲しい」とお客さんは思い、出資者もそれに応えたい、と思うと、自然とこういう「鉄板構成」になってしまうのでしょう。
 スナイダー先生やビート・シートが悪いわけではない。

 しかしですな。
 ぶっちゃけ脚本は劇作品の一部にすぎず、カチカチの標準構成でも世界観が珍しかったり、主役が可愛かったり、画面が超美麗だったり、音楽が泣かせたり、他いろいろでなんとでもなるもんです(ひとまかせ
 それは古典演劇がいまでも生命を持つことで証明されているでしょう、話の筋がそんなにだいじなら『忠臣蔵』なんか誰も観んし、何回放送したかわからんジブリ作品をまた金曜日に観たりせんわ(逆ギレ

 つまりそれが戦術の上、「戦略」のレベルの話です。大雑把な言い方をすれば「企画」、そこで実は作品の魅力はおおよそ決まる。

 というのはスナイダー先生もわかっている、からこそ原題も、
『SAVE THE CAT!』
 これが何を表しているかといえば、主人公に感情移入させるためのテクニックのひとつなんです(他にも多数映画全体に関わるテクニックやチェックポイントが載ってます)。
 つまり、主人公がイケてりゃけっこうイケる。
 脚本でもキャラクター造形に踏み込めば、作品全体の魅力を高めることができる。もしくは、逆に言えば、そこまで踏み込めないと作品は締まらない。

 日本のオタク・コンテンツの場合、キャラクター造形がお話に優先するのはよくあることですが、それでもまあ多少は弄れるので、なんとかおもしろくしよう、と今日も明日もライター達はわりと大変な思いをしてるんです、よ? いやホントに。

 それはともかく守破離で言えば「スタンダード」を知るのは基本、作り手でなく観る者としても、「どうやって作っているのか」が垣間見れれば観るおもしろさも増えましょう。
 ……減るかな?

 僕はとりあえず書棚に挿しておこうと思いました。
posted by ながた at 05:02|

2016年10月28日

10/27


●マンガ「そして<彼>は<彼女>になった 安冨教授と困った仲間たち」細川貂々



 読んだあと、奥さんと二人で
「私たちは幸せだったねえ」
と嘆息しました。

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posted by ながた at 11:03|

2016年10月04日

本「ここまで変わった日本史教科書」高橋英樹・三谷芳幸・村瀬信一




「あの肖像画は頼朝かどうか怪しいらしい」
とか

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posted by ながた at 02:14|

2016年09月11日

本「鬼谷子」高橋健太郎




 副題が
「100%安全圏から、自分より強い者を言葉で動かす技術」。
 口先三寸で大物を動かして世界を変える。
「ネットで炎上」な今こそ必要な技術?

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posted by ながた at 10:43|

2016年08月29日

本「話すだけで書ける究極の文章法 人工知能が助けてくれる!」野口悠紀雄




 我らが「超」野口先生が、「話すだけで何でも書ける」とおっしゃるので、僕も試してみました。

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posted by ながた at 08:15|

2016年08月25日

本『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである』 安冨歩




 ”何かをした結果、感じてしまうものではない。もともと自己嫌悪があるから、自己嫌悪を感じるのだ。”

 我らが安冨歩が「自己嫌悪」を離れ「自愛」に至る道を指し示す。

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posted by ながた at 09:52|

2016年08月22日

本「大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争」辻田真佐憲




「玉砕」という言葉が「大本営発表」で使われたのは1年に満たなかった、というのは意外でした。

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posted by ながた at 06:43|