2023年07月09日

近況

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まいど、ながたです。

間が空いてほんますんません。
二人目がこれほどまでとは思いませんでした。
子供が五人六人おられる方でも
「二人目生まれたあたりが一番たいへん」
とおっしゃってるので、だと思います。
一人目もまだ幼稚園、未知との遭遇の真っ最中で、
こっちもまったく目が離せない、のがきついですね。

というようなことで更新ままなりませんので、
有料プランを削除しました。
楽しみにされてた方、本当に申し訳ないです。
今後の方針は未定ですが、
「書き心」はまだまだ消えてませんので、
どこかしらになにかしら書いていくとは思います。
告知はいまんのところTwitterが一番早いかなあ……
https://twitter.com/KazuhisaNagata

やりたいことは多くて、
まず『ミラクルズ!』ですが
ep14、ep8のリメイクと同時にそれ以外の既刊も
手を入れようかな、と思っています。
時代の流れで、LGBT+まわりですとか、
ルッキズムや強めのイジリもわりとあって、
まあグローバルなご時世ですから、
いつAmazon Primeからアニメ化のお話が来てもいいように(笑)
いや、老若男女どなたでも楽しめるように微調整したいです。
ウチの子がもうちょい大きくなったら読んで
「パパはこんなものを…!」
と思わなくてすむような感じに。

あと「古典を現代風に」というのがずっとあって、
冒頭だけ試みてますが『国性爺合戦』なんか
現代にフィットさせれば十分おもしろいと思うんですが、
まあ難しいといえば難しいです。
『痕』ですら結局コンシュマーに持ってけなかったですからね、
あんな傑作でも「こことここはオミットして」と言い出すと成立しづらくなる。
といって、翻案というか要素だけつまみ食いで持ってくると、本編のおもしろさは当然持ってこれないわけで、『ウエスト・サイド・ストーリー』はそれのおもしろさであって『ロミオとジュリエット』のおもしろさではないわけです。
このへんの匙加減が難しい。
難しい、とか言ってる時点で能力か愛かあるいは両方が足りないのかもしれませんが。

それとおなじみの随筆シリーズもネタは溜まってます。
次は濃いよ。
1本書けるようなのを12本まとめてその名も
『Anomaly12』(仮)
ほらおもしろそう、ほらおもしろそう。
日本語に訳すと
「それを早く言ってよ!」
です。
これもうちの子が高校生ぐらいになって読んでくれたら、そのあとの人生だいぶ楽できるような、そんなのにしたい。
遺言みたいなもんス。
上の子18になる年にぼく年金貰い始めますからね。
死んでてもぜんぜんおかしくないです。
つーか漱石は49で死んでてですね……

まあでも子供二人来てくれてほんとうに良かったな、と思いますのが、子供たちとみんなで「暮らしを立てる」こと以外は本当にどうでもいいことだな、と腹の底から理解できたことです。
焦りとか羨みヤッカミ、怒りや憤りでさえ、子供の謎の湿疹ほどの問題ではない。
くらしが先、モロモロが後。

そんなこんなです。
ご支援くださったみなさま、本当にありがとうございました。
今回は巧くいきませんでしたが、勉強になりました。
活かしていきたいと思います。

  犀角拝
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2023年02月12日

主役とカメラ役


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 大変ご無沙汰しております。
 当方昨年末に二人目が生まれまして、毎日毎夜テンテコ・ダンスを踊っております。どのぐらいかというと、今年入ってから風呂2回しか入ってません。

 視点、だいじですよね。
 カメラの位置と画角、どこ観てるか。

 わたしそれがよく動くのが好きで、自分で描く場合でもそうしがちなんですけど、一般的にはあんまり動かない方がええんちゃうか?と最近思っています。

 NHKの庵野秀明監督の『エヴァ』のメイキングドキュメンタリー観てて、監督が
「アングルが決まってれば役者がアジャパーでもなんとかなる」
とおっしゃってたんです。
 そういえば『エヴァ』って、あれよーく考えると最初から終わりまでシンプルにシンジくんのジュブナイルで、それをそう見せないように、凝りたくったアングルだったり、難しい言葉やわけのわからないイメージが散りばめられているのかもしれない。「ガフの扉」てなんやねん。
 孤独な少年が、なんやかんやで巨乳生活力高め女子と結ばれる、という話です要は。

 最近流行りというか別に昔からあるのかもしれませんが、主人公と視点役が別、というのがあるように思います。
 先日完結した『ゴールデンカムイ』って主人公アシリパさんで視点が杉元。『キングダム』だと主人公政(始皇帝)で視点役が信。後者も大活躍するので主人公っぽく見えるのですが、実はもっと大きな絵があって、主人公はそっちでキーとなる存在でなければならず、といって読者が乗れるカメラが必要なので、そこに居る。
 活躍はまあせんでもええんやけどした方が話作りやすいし、「そこに居る理由」がしっくりくる。
(これで失敗──というと語弊があるかも、ですがあんまりうまくいってないのが『ヒストリエ』じゃないかな)

『よつばと!』だとよつばがカメラですが、主役はあれ世界(日常)ですね。『アルキメデスの大戦』だと櫂さんがカメラで、主役は軍全体ですかね。櫂さんなんにもできないですからね。
 だから最近の異世界転生もの、って異世界が主役で、異世界に放り込まれるのはカメラ役。
『ドラゴンボール』だと悟空が主人公で、カメラも悟空に張り付いてて成立する、というか逆にそうしないと成立しないから、悟飯ではどうしても成立しづらくなって悟空再登板。
 このタイプと分離タイプと、ちょっと違う。
 優劣はたぶん無い。

 でもおそらく「この主人公に乗っかってってくれ」というのが難しくなってるのかもしれないですね。ギャルゲー全盛期の頃から、つってももう20年以上前になっちゃうんですけど、「主人公のキャラの濃さはどの程度か」というのは難題で、あんまり濃くすると「コイツには乗れない」と言われるし、あんまり薄いとヒロインとお近づきになるリアリティが薄くなる。
 そうそう、それでいえば『源氏物語』の光さんは、カメラ役ですよね。一見主役っぽく見せてますがヒロインを撮るカメラ。特に彼がゴリゴリ状況を切り開くわけでもないんです。作者の意図するシチュエーションに放り込まれて、そこで出会う女子を美しく切なく撮る。
 大変やな。

 どっちでもいいかと思うのですが、ただ、読者が
「ああいまここ見てるな」
とわかりやすいカメラ設定がだいじなんだろうな、と改めて思う次第です。最前も申しましたが、私いろんなところを見れるのが好きなもんで、ついつい余計に動かしがちです。動画でいうとカット割り多すぎ煩雑すぎ。
 ちょっと整理していこうと思います。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2022年07月08日

するをつづける


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つづき。

 アンカーをどこに置くか、ということを突き詰めて考えると、僕の場合はやっぱり一言で言うなら、
「愛」
かなあ、などと気恥ずかしくも無くなるんです50も超えると。逆に。

 でも僕が若かりし頃はもっとこの言葉聞いたと思うんですけど、最近急に聞かなくなりましたね。90年代はまだみんな「愛があれば大丈夫」言うてましたよね。00年代は既に怪しい? 特にリーマン後? 3.11以降へ顕著ですよね。
 やっぱりお金かなあ?

 と、考えてみると、愛というものは、

・効率が悪い
 経済的にも労力的にも時間的にも確率的にも。
・「じぶん」と相性が悪い
 他者への関わりだから。
・「しぜん」と相性が悪い
 意図するものだったり無理矢理だったり。努力やガッツとも似てる。

 ということで、確かに高効率・自分探し・作為を減らせな10年代以降、いや大きく見ればバブル崩壊以降32年の、日本社会とは真逆ですね。これは右派左派・老若男女を問わず。
 原因はいろいろあって複合的なんだと思います、環境がさらにストレスフルになったとか、戦後、あるいは長く見れば明治維新以降走り続けてきたからちょっと休みたいとか。なんやかやで、
「外向きに掴み取りに行く」
というアクションそのものがめっきり減りましたね。
 そして愛ってのはそういうもんの最たるもの。

 でもなんでもバランスなもので、内側ばかり深堀りしてても、状況が変化しない時もあります。ボカン・バカン・頭を打ちつつも何かをしていると、それによって何かが動いたりもする。
 というよりも、効率が悪い、というのは稀に大当たりが出るかも?ということであり(そうかな?
 じぶんをだいじにするなら、やっぱり後の自分が楽しく振り返れることや、若い日の自分が「いいな」と思えることを、やるほうがいいし。
 作為を減らすつったって、生きてることは作為ですからねえ。

 キャンプが流行ってますが、僕も昔いろいろ、素敵コテージ連れて行ってもらって朝中央市場で買ってきた海鮮焼きゴージャス今で言うグランピングさせてもらったり、逆にバイクで山奥のダムほとりでソロキャンとかもやったんですが、「どこまで不便を楽しむか」を自分で決められる、のがキャンプの醍醐味だったりします。火起こし一つにしても、摩擦熱からやるストイックなものからカセットコンロまで。どれも楽しいんですよね。どれが正解でもない。

 だからまあ、わざとらしいと言われても、本人がそれがいいと思うのならそうすればいいと思います。たとえ本当に心のうちから湧き上がるもので無くても。同級生に医者が居て、彼の名言が、

「医者はイヤイヤやってても人の役に立つからなぁ」

 これです。
 僕が創作について言うなら、「これぞ」というベストワンでなくても、まあ読んだ誰かがちょっと「くすっ」としてくれたらそれでもう。ワンパターンでもありきたりでも完成度低くてもいいです。
 愛があれば。

 誰しもそういうアンカー(錨)が、愛でなくてもあって、それを支点に振り回されてると思うんですど、
 ──この仮定は間違ってますか?
 ──こういう人間観自体がおかしいですか?
まあ同じ振り回されるなら、
「こいつは何を支点に回ってるんだ?
 ……あぁー、『愛』な。まぁな。それならしょうがない」
みたいな感じになりますよね。
 なりませんか。
 金とか名誉とか、権力欲とか、そういうものよりは。
 もちろんそこには自分勝手とか押し付けとか執着とか、「一歩踏み外すと」ば危険があるわけですが、それは行動する以上、なんだって同じですからね。

 あ、積極性や主体性自体に対する「もういいよ」感、無力感や飽き、これが社会を覆っていると考えると、積極的に何もしない人・岸田首相はまさに時代と民衆の鏡。
「あいつ何もしてないやないか!」
という怒りもわかるんですが、前任者2人特に前前任者が
「全力で間違った方向へダッシュ」
だったから、アレに比べればマシだろう、という気持ちもわかる。
 日銀にブタ積みされてる国債と当座預金、どうすんでしょうね。
 余談。

 こう考えてくると、まあ愛とか、自由とか、勇気とか思いやりとか冒険とかなんとかかんとか、そういう積極性や自主性がこれほど軽んじられている──いやーなんて言うんでしょうね、スルー? 冷笑とまではさすがにいかないかな、子供若者だった頃「エエことやで!」と教わったことが棄却されている、こういう時代は僕の半世紀の歴史の中で初めてなので、むしろこういう時にこそ逆張りもしくはアノマリー、個性にできるかもしれません。
 とか、そういうスケベ心は別にして、エエことはエエことやと思いますので、せめて作品の中では、エエことがエエこととして流通している、ようにしていきたい、と思っています。
 人生の悪い方のことはほっといても目や耳に入ってきます。自分に降り掛かってきたり、ニュースサイト開ければいくらでも。リアルな噂話の類も、悪い話の方がおもしろいですからね。だけど人生ってのはもちろん悪いことばかりじゃなくて、良いこともたくさんあります。あんまり悪い方に意識取られすぎないように、良いことの方も摂取した方がよくて、そのためにコンテンツって奴があるんやないやろか、と思ったりします。
 自分自身も、不安な思春期に書籍にマンガにアニメにゲーム、そんなものにずいぶん助けられました。もしこういうものが無いSFみたいなディストピア・ワールドだったら、一体どんな辛い日々だったろうか、潰れてたかもしれない。なんといいますか、恩返し。兼、いま、鬱々している若人や子供たちが、すこしでも元気になってくれたらいいなあ、と、自身に子供できてようやく思います(笑)

 こないだ幼稚園の体験保育に行きまして、平日昼間なので14組の中でパパは僕1人だったんですけど(がんばれニッポン)、3歳前後の子供たちがワーッとカオスしてると、「ええなぁ」とほんとうに思います。
 自分のできることで、このちいさきひとびとに貢献できること何か、と思うと、「世の中にはええことがいっぱいあんねんで」と伝えてあげることぐらい。

 同じようなこと言いますが、疲れからか貧困からか、
「継続的にエネルギーを掛けていかないといかないこと」
が全体的に忌避されている気がします。
 上のいろいろだとか、そもそも学習だとか。
 でもまあ、それら、
「じぶんで」「つかみとりにいく」「ええことだと信じるものを」
という行動は、その行動自体によって、自分にエネルギーが湧きます。
 むしろそういうことをしないから、疲れてる。
 中村哲さんの足跡みると異常なバイタリティなんですが、内からそういう無限のエネルギーが湧いていたんだと思います。
 ランニングでも筋トレでも、やってる人元気じゃないですか。あれは元気な人がやっている、という面もありますが、やると元気出るんですよ。僕も走ってた時は活気あったなあ(膝痛めました

 こういうのって歯磨きみたいなもんで、ちょっとめんどくさいんですけど、それやっとくと、もっとめんどくさいことにはならない。

 継続的に、「する」ってことのだいじさ、というか、威力、があって、いいことであればあるほど、「する」を続けなければいけない、というか、いいことというのは、しつづけることまで含めて、いいことになっている。
 愛、勇気、正義、学習、自由、努力、根性、鍛錬、修行……
 日本国憲法12条
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
 これでございますよ。
 DO LOVING!
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2022年06月29日

万能電気鍋は無い


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先日のこれ(https://fantia.jp/posts/1337665)の補足的な。

 たとえば軍事行動には、戦略・作戦・戦術というレイヤーがあります。
 レイヤーというのは階層ですね。アニメのセル画を想像していただくと、背景の絵にキャラの絵を載せ、その上にさらに目とか鼻の絵を載せる。こうすると、目を閉じる時に目だけ違う絵を用意すればいい。逆に同じキャラを違う背景に載せるのも容易。
 もちろんそれぞれの階層はお互いに強い関連があるわけですが、とりあえずレイヤー分けしてそれぞれの視点や解像度でモノを観て、あとで統合するとわかりやすいですね、と。

 そのノリで行くと、創作活動を
「なんかモノを作る」
と考えると、
 コンセプト・マネジメント・実現技術
と3レイヤーある。
 で、このコンセプトっていうところはもう、その作者に固有のものですから、基本動かせない。(相当商業的にシステム化されたもの、たとえば大きな週刊雑誌の連載狙うマンガとかだと違うかもしれませんが……それも『ONE PIECE』や『進撃の巨人』、あるいはゲームで言うと『Fate』みたいに超大ヒットは「作者固有の」から生まれてるところを見ると、そこを捏ねて人為的に構築することが正解とも思えませんが、それは余談)
 さらに一番下の実現技術の方も、たしかにあるラインまでは物理的な「ここまでは欲しいなぁ」みたいなものがないわけではないですが、それはサッカーでいうと1試合10km走る、みたいなもので、一応真剣に何年かやってれば身にはついてる程度のもので、そこで差別化する方が実は難しい。15km走れれば他に何もできなくてもリヴァプールでもRマドリーでも採ってくれると思いますが、人間には不可能ですね。

 ということであるならば真ん中のレイヤー、マネジメントの部分で差がつくというか、ここの違いが作品の良し悪しというかインパクトというか影響力というか支配力というか存在感というか、そういうものに決定的な影響を与えるのだろう、と考えたわけです。

 いやこんなに整然と言語化できてたわけじゃないんですが、コンピュータ・プログラミングで言えば、ミドルウェアというかライブラリというか、実コードをコツコツ書く前に、使いやすいライブラリがズラッと揃ってれば、それを揃える手間をマイナスしてもなお、生産力が上がる、に違いない、と。
 そんなイメージで。
 だからまあ、いろいろ考えたり、思いついたことを試したり、してみたんです。

 でも結論としては、前回「注文住宅」を例にしましたが、結局の所、創作作品はひとつひとつの作品の「造りの違い」が大きすぎて、むかーしの大工さんがそうしていたように、現場合わせで材木切ったり貼ったり、金尺で測ってチラシの裏で寸法計算してコーナンPROに部材買いに行く、そういう方が結局手っ取り早い。
 特にここ数年は
「そんなわけはない」
という信念というか執着というか、そういうものでへばりついていました。既にやれることやりつくしてて考えられること考え尽くしてて、「……無いなぁ」という気しかしないんですけど、「いや、あるはずだ」と。
 そう思いながらもやる時間、というのはものすごい無駄なようですが、諦めが付く、というか振り返る必要は無くなる、という意味で必要なコストなのかもしれません。いや、わかんないな、これもそう思い込みたいだけかも。とにかくキツいので、なにかやってるフリをしたかっただけなのかもしれませんね。
 でも思いません? どんな作業でも「もうちょっとうまいことできるやろ」みたいなことを。その感覚があるからこそ科学が技術が発達して人類は……

 うーん。

 まあうまくいかなかった理由をあまり突き詰めても、最後は「運」「タイミング」「相性」といった、自分ではどうにもならないところに帰着しちゃうことが多いので、しょうがないですかね。結婚就職転職進学あるいは転居に介護それから子育て、人生は自分ではどうにもなんないことだらけで、で、そういうことの方がだいじなことですね。いやだいじなことだから自分ではどうにもなんないのか?

 見方を変えてみましょう。
 注文住宅の例で言うと、「どんな家族がどんな生活を営むか(営みたいか)」によってディテールが変化するわけですよね。同じ敷地、同じ予算、同じ工務店でも、子供5人の3世帯9人キャンプ好きアクティブ一族と、インテリ熟年夫婦2人本に埋もれたい、では、できあがりの家何から何まで片っ端からまるで違うわけです。
 つまり作品でいうと、おおもと、コア、これをどんなふうに捉えるか、で全部変わる。
 ここまではいいですね。

 で、ここからは文章作品の話になるんですけど、(たぶん作用範囲はけっこう広いと思うのですが、自分でそんな真剣にやってないのでなんとも)結局「なにかを形作ろう」とすると、
「2要素の引っ張り合い」
というのがたぶん基本になるんです。
 恋愛噺ですとAさんとBさんが。
 これほんの数年前なら「男と女が」と言ったもんですが今はこう。
 ここの引っ張り合い、相克、矛盾、山あり谷あり、それらは緊張と緩和を伴い、つまりこれがいわゆるドラマ。
 んでこの2要素ぶつける時に、最初のコアから見る。
 同じ恋愛噺でも「愛がすべてさ」という主題設定と、「恋は一瞬の閃光」という主題設定では、作り変わってきますよね。
 前者なら最終的には超えられるようないい塩梅の万力を用意するし、後者ならダイナマイトみたいなの仕込んどいて最後ドーン!と。
 そのハードル設定こそ、まさに主題の裏面。主題を際立たせるハードルを用意するのが、まあ「上手さ」と言ってもいいのかも。
 人間のハイジャンプで3mのハードル用意してもしょうがないですし、コースサイドに美味しそうな焼き鳥焼いてても「犬や無いんやから引っかかるか」という話になります。ちょうどいい感じで「あ、それ跳べるのか? 無理なのか?」とドキドキするような奴。
 カラータイマーがピコンピコン言い出すと、時間制限のドキドキのみならず、「このひとはこんなに一生懸命僕らのために戦ってくれてるんだ!」というものすごい共感が沸きますね。あれはあくまであのひとが行きがかり上「この星の人達を守らねば」という主題があるからこそ、あの仕掛けと、それに対応して行動することに説得力が生まれる。あの仕掛けだけポンとあってもしょうがないし、そんなに一生懸命でない(あるいは時間にルーズな)ヒーローにあれが付いててもあんまり効果がない。

 というふうに考えてきますと、「うまいやり方が無い」というのは言い過ぎで、上流(コンセプト)から下流(ディテール)まで同じ……なんと言いましょう、いまのところ仮に「主題」というよく使われるヤツ使ってきましたが、これあんまりピンとこない言葉なんですよね……特に日常生活で。
「価値観」とか?
 それが流れている必要がある。
 必要というか必然的に、か。
 その統一的な価値観にフィットするやり方が、その作品(あるいは作者)にとっての「うまいやり方」であって、だからこそれは、その作品・作者によって違う、あるいは変わる。

 BMWは最近、多くのモデルで豚ッ鼻ことキドニーグリルを際限なく大型化して賛否両論、デザインのためのデザインが嫌いな小生などは顔をしかめておるわけですが、あれ別にどうでもいいんですよあの会社にとっては。
 なぜか。
 B社の社是ご存知「フロイデ・アム・ファーレン」邦訳「駆け抜ける喜び」。デザインを含めたメカニズム全ては爽快な走りのためにあるので、何かが大きくても小さくても醜くても美しくても、BMWは揺らがないのです。もちろんファンもね。
 そんな感じ。
 余談ですが「ファーレン」は「運転」なので直訳すると「運転する喜び」、これを上のようにひねったのは『星の王子さま』ばりの名訳ですね。

 まあ企業スローガンとかまで寄せちゃうとこれはまたこれで生々しいというか生臭いというか、そんな気もせんでもないですが、そこまでカチカチと言語化しなくても、作者がだいたい固有であまり変化しない価値観というのがあって、それを噴き出すのが作品、と捉えれば、その「価値観」に沿って仕掛けを考えたり、描写のフォーカスを置いたり、細かい表現を選んだり作ったり、そういうことをやっていけばいいのかなあ、と思います。

 だいたいクリエイティブ系の学校等々の話で「ひとつ完成できない」というエピソードが出てきますが、それはおそらくこの価値観、言いたいこととかメッセージとか主題とか別名なんでもいいんですけど、このコアのところ無いんじゃないかなあ。
 なんでもそうですが、一応でも「どうしようか」が無いと、とっちらかってどこへ進んでいいかわからなくなります。出かける時には「うまいもの食う」とか、それこそ「ブラブラ歩く」でも「普段通らない道通る」でもなんでもいいと思うんですが、それこそ自分が普段ポリシーとしてないこと、日常のムーブとは180度違うこと、でもいいかもしれませんというか、むしろ創作なんだからこそ、そういうの方が大暴れできてスカッとしていいかもしれませんね。
 仮に置いたそれを、やってる間に変えていけばいいではないですか。BMWのも生まれたのは1972年、創立60年近く経ってからです。Appleの「Think different.」だって最初からじゃなくて、ジョブズ帰ってきてからですしね。

 やり続けていると自分のことが多少わかる、という点で、創作活動はヒーリングになりますね。辛いようなら何かがおかしい。どこか変えた方がいい。

 わちゃわちゃ言ってきましたが、いまんところそんな風に考えています。
 あ、ひとついま気づいた、
 すぐ上に書いたように、これねえ、やってるうちになんとなくこうかな?これかな?みたいににじり寄っていくもんなんですね。最初から「Think different.」と呟きながらガレージでApple1を作ってたわけではない。
 だから、とてもとても、わかりにくいんでしょうね。
 初心者の方に、講義みたいな形で教えられるかというと、無理だ。それで理解できるひとはたぶんもういっぱしのひとで、教えること何も無いわ。
 技術的なことは価値観から導き出されるものなので、単独で教えても効果薄いし、さりとてここのところは、腑に落ちた瞬間免許皆伝なので教えることが無くなる(笑)
 茶道とか華道とか、最近でいうとヨガとか、数年真面目にやった程度(程度言うと怒られますけど)で師範になるシステムがありますが、あれ本来はこういうことなのかなあ、と思ったりもします。
「あなたの価値観で、やればいいのよ」
という一言が腑に落ちれば、落ちてない人をアシストすることができる。それはすなわち師匠、メンターです。
 宗教とかでもわりとそうよね。初等教育とかもそうか、「大卒すぐに教師になって、社会しらんで子供になんか教えられるんか」というのは間違いで、社会のこととは基本的に独立した「そこ」を教える、というかエンパワーするのが初等教育の教師の役目で、だからもし経験が必要と言うならむしろ、社会人経験よりサークル活動とか芸術とか選挙ボランティアとかバンドやるとか、「カネ絡まないけど一生懸命やらんといかんもん」でのたうち回る経験ですかね。
 それは余談。でも人間の精神活動に置いては、実は普遍的なことなのかもしれませんね。
 カネ絡むとあかんのですよ、儲かると合ってる、儲かってないと間違ってる、と勘違いする。関係ない。カネの話とは独立事象ですね。

 しかし、してみると、簡単なことやな(笑)
「やり方や道具は製品に規定される」
ってそらそうやろ、という話なんですが、この高い電気鍋があったら美味しい煮込み料理ができる、と思うじゃないですか(笑)煮込みなんてこの2年ぐらい食ってなくても!
 まいどアホみたいなこと言うててすいません。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2022年06月25日

見果てぬ夢を見て欲しい


以下はFantiaに投稿したテキストです。
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ながたです。ごぶさたです。
 FANTIAの事務局ってサービスが良くて、更新してないと、
「更新のネタで困ってませんか? だったら……」
みたいなメールをくれるんです。

 ホントすいません。

 小田嶋隆さんが亡くなって、最近のTwitterアイコン痩せはったなあ、と思ってたら重い病で。真っ当なことを真っ当に言い続けるだけで貴重な存在になる世の中ってどうなの?

 ということで、できるだけ真っ当なことを言おう。

 小生ずっと「創作とはなんぞや」みたいなことを考えたり、その結果を書き留めてきたりしたのですが、そもそも設問設定がおかしかったかもしれません。

 創作がなぜ行われるのか、といえば、それはもちろん、
「なにか言いたいことがある」
からでしょう。
 なんだかトートロジーっぽいですが、言いたいことを、それぞれの媒体に乗る形にかたちづくる、音楽なら曲にする、絵なら色と形にする、文章ならこんなかんじ、これが創作ってものではないか、と思うんです。
 とすると、
「言いたいことが言えれば、それでいい」
と究極的にはそうなりますね。
 つまり「やり方」なんてそもそも無い。

 義父が歌人で──なんかカッコいいなこの6文字──師匠が福島泰樹さん。不勉強で存じ上げなかったのですが、「絶叫コンサート」つまり舞台上で短歌を叫び上げるスタイルを長年やっておられて、それはおそらく、
「こうせねばならない」
という止むに止まれぬウチからの噴き上がりに身を任せた結果、生まれたスタイルなんだろう、と思うんです。だから説得力があって、ひとを引きつけて、自分にも(傍から見ているよりも)無理がないから、長く続く。

 とすると──
 外形的・形式的なところから、たとえばこれはロックだ、これはポップスだ、ロックである以上はこういうリズムでこういうコード進行で……という話は、好事家や評論家が分類整理考察研究のために行うのはいいとして、プレーヤーにとってはあまり意味のない話ですね。
 スポーツですら、たとえばサッカーでケビン・デブライネを指して「現代的インサイドハーフの完成形」などと評したりするわけですが、デブ先生はまさかそうなろうと思ったり、そうしようと思ったりしてそうなってるわけではなく、ただ与えられたタスクをより効果的に生産的にこなすには、自分の持ってるリソース、技術や走力・筋力などをどう発揮すればいいのか、そこへハメ込んでいくうちに、外形(スタイル)ができあがる。

 要するにですね。
「あんまりこんなこと考えてても意味ないなあ」
ってことがようやく腑に落ちたんです(笑)
 いや、当初から薄々そうじゃないかなと訝しんではいたんですが、普遍的にそうだな、つまり僕もそうだな、とやっと納得できる気がしてきたんです、最近。
 そこまでやらんとね、方向は変わらないですよ。
 しつこいかなあ?
 しつこさっていうのは、強みでもあるけど、弱みにもなりますね。どんな特性・特徴もそうだとおもいますけど。

 ともあれ、それよりは、中身、自分の中にある、
「言いたいこと」
にちゃんと気をつけ続ける、というのが大事ですね。
 それは微妙に変わりゆくものです。
 大雑把に言って同じものでも、レイヤーが上下したり……
 僕の例でいうと、改めて言うのも照れちゃいますけど、
「愛だろ、愛」
みたいなところがですね、わたしの主張なわけです。
 しかし愛にもいろいろあって、「彼女が好きだ」みたいなスイートなものから、「好きだからこそ(彼女のためを思って)別れる」みたいなビターなものまで、まあ物語はなんぼでもできるわけですね。
 でもその一番のピントが合ってるところは、
「ひとを想いつづけるこころ」
みたいなところです、と。
 だから同じです、と。

 一応、『星の王子くん』で描きたかったのはそういうところで、5人のヒロインはそれぞれの形で王子くんへの想いを持っているわけですが、まあ、全部尊いですよ、と。
 それをけっこう一生懸命やったのに、まあだいぶ業界的に下降線を辿っていた頃とはいえ、反応もあまりなくスーッと流れていっちゃったので、ちょっとガックリきて、そんなこともすっかり忘れていました。
 ま、直後に東日本大震災でしたしね。(発売日は2011年2月26日)あのドエライ災害の模様がTVから延々流れてきて、直後に原発がドカンと来ればなにもかも吹っ飛びます。
 11年かぁ……
 振り返ると、祖母が亡くなったり中国へ遊びに行ったり書籍のライトをしたり猫が3匹ほどやってきたり、カングー乗ってデミオ乗って、結婚して子供が生まれてそしてコロナが……とイベント盛りだくさんだったんですけど、あっという間ですね。

 なんの話でしたっけ。

 そうつまり、主張、提案、主題、テーマ、言い方はなんでもいいんですけど、それはそのひとがそう思っているものなので、いいもわるいもなく、正解も不良もなく、優秀か劣悪かも当然なく、なんでもいいんです。
 不倫だって大テーマだし、殺人だって、極端に言えばコナン君も「殺人」にまつわるいろいろ、が作品大きなウェイトを占めてるわけだし。
 で、それに合った「形作り」の方法論は、それぞれの作者のリソース(この場合は描写力とか、取材力とか、どこの立ち位置に共感・肩入れするか、とかとか)をどう配分するか、足りないものをどう補うか、みたいなところで、作品個別個別に現場・現物合わせで作り上げ続けるしか無いわけです。
 注文住宅みたいに。
 万人受けする定番のサイズやレイアウトの並ぶ建売住宅と違って、こういう趣向を持ったこんな人達の集まりである家族が、この地域でゆったり暮らしたい、という要望に、設計・施工で応える。
 ああそうか、カッコイイ(そしてできれば高効率な)建売が量産できるシステムができれば楽で儲かる……みたいなスケベ心が、迷宮の入り口だったのかもしれませんね。
 儲かる方はともかく、楽はしたい。
 しんどいんですよ創作って。
 でもそれは、原理的に、ありうるんですけど、無いんです。
 つまりそういうところを狙うと、どこかで見たような感じを全編から受けてしまう。そりゃそうですよ鉄板要素ばかり並べるんだから。
 それは建築建物とか工業製品ならアリなんですけど、コンテンツでは致命的なんです。「なんだこれ見たこと無いぞ」があればあるほどいいので。
 で、そういうことをするって、不安だしお手本無いし効率悪いし、つまり「しんどい」んですよね。

 楽しいことやってるはずなのにこんなにしんどいのは、おかしいんじゃないのか?
 いや、おかしくないんです、楽しいことは、しんどいんです。
 50になると思います、夜通し酒を呑み明かす、「ラストオーダーです」「ピッチャーを3つ!」あれもうしんどうてできません。でも超楽しかった。
 サッカーでも料理でもクルマでも全部そうですよ、いまさら、この電気でGo!のご時世にFRディーゼル6気筒8ATオール自社製完全新作とか気ィ狂ってるでしょマツダ。
 だから世界中のクルマバカが浮足立ってるんですよ(笑)
「俺は嫌いじゃないぜそういうの」
とかニヘニヘしつつ。
 あそれで見直したのがレクサスオーナー。「RX注文したけどいつ来るかわかんないからCX-60にするかも」とか言ってる。あの人達ってクルマとしての価値がわかってないだけで、商品としての価値は意外とちゃんと見てますね。そりゃそうか、ブランド買いするならジャーマン3にするわけで、Lの字買ってる時点で一応頭と感覚は生きてる。
 褒めてますよー!

 というようなことで、
 とってももったいないけど、
 これにてこのコース破棄、という感じです。
 我ながら、長い夢を見ましたな。
 20年ぐらい?
 まあ、男の子ですから!
 見果てぬ夢を見てなんぼ!

「うまいやり方は無い。
 その時にできるやり方があって、そのやり方しか無い」

と、こんなまとめですかね。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2022年04月07日

回心

今朝もまた、身も蓋もない話をします。

 拙者御存知の通り「身も蓋もない話」が大好きで、言い換えれば真理を一言で突いている話。
 高校生の頃、深夜TV『モーレツ!科学教室』にて、UCLAで当時話題の新素材「ファイン・セラミック」の研究をしていた華やかな生活を捨て、帰国して実家の喫茶店のマスターになったトンチ博士が、ポンチくんに「なぜ帰ってきたんですか」と問われて答え、
「ポンチくん……
 セラミックは、割れるんだ」
 当時TVの前で「あーっ!」とか叫んでリアルに膝を打ちました。ホントに打つもんですねホントに「なるほど」すると。

 セラミックさえあればなんでも解決、鉄の代わりもアルミの代わりも木の代わりもなんでもできる、しかも型に入れたケイ素焼くだけだから枯れた技術で安くて簡単!と言われてたんですが、確かに割れちゃうとミッション・クリティカルな部分(たとえば自動車用エンジン)では使えませんよね。そうなると使用用途は思いの外限られる……といっても、いま新築の家の外壁なんか焼き物パネル一辺倒、おかげで外壁のメンテコストがだいぶ減ってるそうですから、当時の研究者たちの奮闘は報われているのでしょう。

「回心」ってことが稀に起こります。
 本来は宗教的な帰依、神の実存なり仏の偏在なりが実感として得られて、心の底からそれを信じるようになる、という意味ですが、要はそれ
「ガラッとものの見方が変わる」
ということなので(無理くり)そういうこと一般の話だと思ってください。
 これがなぜ・どうやって起きるのかを研究しているのですが、「なぜ」は置いといて「どうやって」の一つには、上記の例のように、
「『つまり』の一言」
みたいなものを見つける、というのがあります。
 割れるものを(もちろん金属も割れますが、割れやすいという意味で)エンジンに使いたがる人は居ませんから、性能とか実現可能性とか考えるだけ無駄です。
 私はこの「つまり」が大好きで、そんなに関係ないことでも一生懸命調べたり考えたりしてしまいます。でもなかなかわかんないことがほとんどです。

 あるいは宗教家の場合、「修行」というシステムを通じて、けっこう無理矢理に、それこそ身体的・精神的なストレスや危機的状況を通じて意識を朦朧とさせ、幻覚幻視幻聴みたいなものを呼び込んでまでそれを起こそうとしますね。大変ですね。

 いずれにしてもそれはなかなか難しく、
「そうか!」
という瞬間はなかなか稀です。
 その一瞬は輝いて見えても、3日も経てばまったく今までと同じ見方しかできなくなってて、「あの悦びはなんだったんだ」と自分に呆れることも、僕の場合10度や20度ではないです。
 つらいなあ(笑)

 でもまあ、おそらくですけど、春の日和のようにふわふわで生きているとそういうことは起きないのではないか、と思います。
 なぜなら、起こす意味も起きる意味もないから。
 しあわせですもんね、すでに。

 僕は、自意識的には、大変しあわせな子供時代を送れた……と思い込んでいるのですが、それでもこういう「回心」に対する渇望みたいなものがあって、そのくせ飛び込んでいく度胸と熱意はそれほど無くて=いつも醒めてて、なんでそうなんかな、と考えることがあるのですが、これつまり人間という種が持つ、「進化」への駆動力なんじゃないかな、と。
 他の動物なり植物なりは、生存のための本能なり欲望なりで進化へのドライブが掛かるのだろうと思いますが、人間は(おそらく)大脳の支配範囲がでかいので、そこにあらかじめ、
「ものの見方を変えよ」
「そのための努力をせよ」
というプログラム、いわば「自己回心エンジン」が書き込まれてて、それに突き動かされるようになってるのかなあ……とか。
 もちろん、僕の場合に限れば、「しあわせだった」という記憶を自分で捏造したくなるほどつらい幼少期を送ってて、それが抑圧されてて、そこがドライブしてる、という可能性もそりゃゼロではないと思うんですが、自分でそれを認知する能力はないし、する気もない。
 となると、まあそういう、
「人間にはもともとそういうエンジンがある」
という考え方になります。もちろん、人によって強い・弱い、さらにはある・ないという差はあるのでしょうけれども。

「なぜこんなに
 『つまりなんやねん』
 を探すことに躍起になるのか俺よ」

という疑問に対する、いまの私の答え。
 でも、あとパズルと一緒で、解けた時の
「あーっ!」
がキモチイイから、という身も蓋もない理由の可能性はすごくあります(笑)
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2022年04月02日

マヨネーズ


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もちろん、接続してるかどうかは気にしないという手もある。

 前回書いてしばらくウツラウツラ
(子守しながら天井見上げて考えるのにいいネタです)
考えてましたら、
 やっぱり、
「接続の工夫」方向を攻めるのはなかなか難しいのかなあ……
 とか!

 あーっ!
 ちゃぶ台がー!

「コミュニケーションは受け手がする」(byドラッカー)
という点をピュアに信じるなら、
送り手には工夫もへちゃらも無いですよね。

 オーディオ、という沼がありますが、あそこ沈んでる人とまだ足元ちゃぷちゃぷ言わせてる人の違いは、ケーブルだと思います。
 まあ百歩譲って電源ラインやスピーカーケーブルはアナログ要素もあるので、あるかもないかも、とも思いますが、デジタル系の伝送ケーブルまで「違う!」と言われだすとどうにも反応しようがない。
 でも彼ら彼女らには間違いなく感じてる「事実」で、それつまり彼ら彼女らが「違う」といえばそれは「違う」んです。「客観的な」とかそういうことは関係ない。
 耳、聴覚というのは五感の中でも特にそれ──脳による補正──が強力らしいです。

 というような現象というか「事実」を引っ張ってくると、だいたいどんな作品でも受け手が好きなように、感じるままに受け取るのであって、そもその「受け取り方」なんて送り手にはどうにもならない。
 ラーメン、「こう喰え」って締め付けてくる店ありますけど、そう言われたからって店側がイメージしてる味にはならない。
 当然ですわね。

 そう考えてくると、
 むしろそういう方面ぜんぶ捨てちゃって、
「つくりたいようにつくる」
っていうのが結局は一番ピュアで、
その結果としてむしろスッと通る、
なんてことが起きるのかも?

『伝え方が9割』
という書名を書店で見かけましたが、
もしそうなら、
「伝え方」を諦めれば、
9割も労力・リソースを削れるってことですよね(笑)
 その9割使ってブツそのものを向上させる努力をした方が、結果として良くないッスか。
 ものすごいシャレオツなCMやってるTVと、同サイズで店頭で観て画質差わからなくて9割引きの知らんTV、どっち買います?
 微妙かな(笑)
 スマホだとそれに近い問いありますね、最近半導体不足でボトムが上がりましたけど、こないだまでRedmi9Tが13400円とかで売ってて、ちょうど最新iPhoneのMax盛りの10分の1とかです。
 やれることほとんど変わんないです。
 どっちがいいってことじゃなくて、どっちでもいいというか。

 もちろん、例えば文章なら誤字脱字を無くす、とか、適切な句読点、とか、そういう「伝え方」は簡単に向上できるのでやっておけばいいでしょう。しかし、例えば構成とか章立てとか、創作なら場面ごとの起伏みたいなものでさえ、実は書き手が思ってるほど機能していないのではないか。

 でも、それを言っちゃあおしめぇよ、というか、
「ほな(よりよい作品を生むには)どうすんねん!」
という疑問が次に湧きます。
 ですがその、
「よりよい」
っていうのがそもそも幻で、当人は「よりよくなった」と思い込んでるけど、受け手からすれば全然そうでもなかったりもします。
 デビュー作が最高……という人はさすがに少ないにしても、ガッと人気が出た初期作がキャリアベスト、という人はかなり多い印象です。
 荒木飛呂彦先生の『ジョジョ』で何部が好きですか、と問われるとだいたい1〜3部で、まれに『バオー来訪者』と答えるバカが居る、という感じでしょう?
 おじいちゃーん!

「小説という表現形式のたのもしさは、マヨネーズをつくるほどの厳密さもないことである」(by司馬遼太郎)

 これ『坂の上の雲』のあとがきなので聞かれたこともあるかと思いますが、司馬先生いつもこの「マヨネーズ」を使って、
「小説に失敗なんてないよ、
 作者の満足度に違いはあるけど」
とおっしゃるのです。
 ちょっと牽強付会かもしれませんが、なにか伝えたいことや描写したいことがあった時に、「正解」はもちろん無くて、その時の作者が良かれと思う描き方をすれば、それでOKなんだ、と。
 多くの作者が
「もうすこしうまくできないか、うまく伝えられないか」
ともう節々で悶えまくるわけですが、それは実はあまり……なんと言うんでしょう、効果はない、あるいは、意味はない。
 司馬先生の全盛期のめちゃくちゃな生産能力、文字通り桁違いのそれを見ると、確かになんかちょっとでもそういう「悶え」をやってたら到底間に合わないようなペースなので、もう、
「書いたら終わり」
ぐらいの勢いでやってたはずです。
 で、どれもこれもがベストセラー。
 それをもちろん「天才」っていう言葉で片付けるのは簡単なんですが(事実、海音寺潮五郎先生が賞レースの審査員として「(他の審査員は)なんでわからんのだあの天才を」と言った)
むしろ天才性があるとするならその、
「どんなふうに書いてもあんま変わらんで」
という点を早いうちから見出したところ、にあるのかもしれません。
 そして他の審査員の先生方、が無意識的に目を瞑ろうとしたのは、
「もしそういうやり方が成立するなら、
『小説家』というプロが成立しなくなるのではないか」
という恐れからかもしれません。
 ほんの数年前まで、芸人さんたちがYouTuberを黙殺したように。
 でもその後の流れとしてはご存知のように、実績ある芸人さん(で動画向きの芸風の人)がYouTubeやり始めるとガンガン再生回数回るわけで、つまりそこ(舞台技術みたいなもの)は価値(おもしろさ)の源泉ではあんまりなかった、下支えする技術ではあるけど、ということが明らかになっただけのことです。

 延々と「うまいことやる方法」を考えてきたつもりなんですが、
「無い」
っていうのはなかなか証明できないので、もし本当は無いとしても、探し続けてしまうわけですね。
 でもそれこそ20年とか時間費やしてまだ見つからないなら、もう探索を止めて手持ちのリソースをありったけブチ込むことだけ考えて生産し続けた方がいいかなあ、と思う昨今です。
 あるいはちょっとケムに巻く言い方するなら、
「うまいことやろうとしない、
 のが一番うまいことやるやり方」
とかね。
 伝え方っていうけど、やってほしいことややってほしくないことを3点箇条書きで書くのがおそらく一番ですよね。そうすると角が立つからいろいろこね回して台無しにするんですけど、角立っていいなら伝わるのは伝わる。
 つまり「伝え方」って言ってるのは嘘もしくは欺瞞もしくは両方で、
「動かし方」
でしょう? そう言うとがぜん難易度上がるのがわかりますよね。だからそう言ってないだけで。
 小説でも音楽でも絵でもなんでも、別に動いてもらいたいわけではないので──そりゃ心が動いたらもちろん嬉しいですけど──そこを捨てるなら、すなわち、「感動して欲しい」という欲を打ち捨てるなら……ほんとにマヨネーズよりも自由に作っていいんじゃないですかね。

 ベストセラー『嫌われる勇気』にアドラー心理学の考え方で、
「人の悩みは人間関係が9割」
みたいな話が書いてあって(ちょっとうろ覚え)
「伝え方」っていうのは人間関係の問題ですから、
「人を動かそうとしない」
と決めれば0.9かける0.9で0.81、
つまり80%も人生が楽になりますよ。
 2歳9ヶ月を日がな一日相手してますと、確かに、
「こうしてほしい」
と思わなければ、8割ぐらい楽になります。
 物理的に危険な行為を止めればいいだけなので。
「いちごだけ食べずに白米食べてほしい」「動画そんなに近くで観ないでほしい」「階段はだっこさせずに自分で登ってほしい」「スプーンは使えるんだから使ってほしい」……
 山のようにある「ほしい」を止めれば。
 なかなか止められないんですけどね(笑)

 つまりこれもちょっとメタな話で、
「そうすれば簡単なんだけど、
 そうできない・そうしたくないもんなんだよ、
 人間は」
というもので、だからさらっとできちゃう人は天才と呼ばれるんでしょうね。どんな面でも。経営とかスポーツとかでも、なんかそういうところがあって、そこブッチできる人が他に対して8割増しみたいなパフォーマンス出して周りびっくりする。

 ……とか言ってるとこっちはこっちで大変そうだなおい。

 まとにかくそのー……
「『うまいこととやろう』とはしないでおこう、
 というやり方」
はある、という程度のことは言える、と思います。
 でそれがあまり話題に上らないのは、それで成功した例が少ない(ように見える)のと、あと
「これがうまいやり方ですよ!」
というのがすごくお金になるから、でしょうね。
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2022年03月07日

接続するぞー!


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きのうの『VでRで』の補足みたいなことを。

 今日お風呂入ってて
「あそうだ『虚実皮膜論』」
 ご存知・世阿弥師匠の
「虚と実の被膜のうちに芸がある」
というわかるようなわからんような謎の言葉ですが、
もしコンテンツが拡張現実なら、
その「拡張させる」ってところが技術ですよね。
 自分の現実に接続されず、拡張されないままだったら、虚構は虚構のまま、幻は幻のままで、「(自分の)現実」にはならない。
 くっついてはじめて、「(自分の)現実」になる。

 ところが一般に
「コミュニケーションは受け手が行う」
ものなので(これを説いたのがPFドラッカーですよ覚えておきましょう)、作者が「これをあなたの現実に組み込んでくれー!」となんぼ吼えても、受け手がその気にならなければ幻影のままです。
 だから、
 芸を凝らして、
 接続させる。

 芸はその虚構、幻影、幻を構築するために使われる「のみならず」(もちろんこっちもだいじ)、それを受け手が自身の現実に接続する、拡張する、そうしやすくなる、したくなる、知らずにしてしまう、そのように仕向ける、ところにこそ、あるし、使われる。

 オタク・コンテンツとか、小説でしたら「ジャンル小説」なんて言われちゃう、SFとかミステリとか、そういうものが若干下目に見られちゃうのはひょっとするとここで、そういうものは受け手が飛び込んできてくれるんですね、欲しいから。欲望や感情感覚を強く叩くので。
 と、比較的・相対的ですが、今言うところの「芸」の必要性が低くなる=あまり凝らされなくなりがち。
 本格派やってる人たちからすると
「そここそが一番たいへんで難しいんやろが!
 そこやれへんかったら意味ないやろ!」
ということになる。
 もちろんそれには反論もあって、
「そこを外すからこそリソースを虚構構築の方に費やせて、ありえないほど荘厳で緻密な世界を築き上げることができるんだ!」
とか、
「ターゲットユーザーが望むものがわかってんだから、それ以外にリソースを割くなど蛇足あるいは屋上屋あるいは盲腸!」
とか。
 さらにいえば、楽な道でもなんでもなくて、当然市場のライバルは同じようにそこにリソース割かないので、競争条件は同じです。アノマリーを見つけるからこそ優位に立てるのであって。軽は普通車に比べいろいろ削れるわけですが、スズキとダイハツは長年血みどろの戦いをしてきたわけです。

 あるいは任天堂という会社が、ゲームビジネスで未だにちょっと格の違うポジションに居るのは、山内さんから横井さん岩田さんもちろん宮本さん、キープレイヤーがみんなその
「何も知らない人にどうやってゲームをやらせるか」
という接続の点に腐心し続けてきているから、ではないでしょうか。彼らは常にそれを社是としてハードをソフトをサービスを開発してますね。
 そこが一番たいへんだから。
 ゲームに関わる人ならみんなそれを知ってます。
 僕もオタオタMAXの隅っこに居ましたけど、それでも
「ゲームの開発をしています」
という言葉は大人たちに響かないのなんのってもう。
 ホントに。
 2022年だったら違うんですかね、だいぶお年を召した方もスマホでなんかやったはりますね、カフェで画面が目に入ると。
 だからそこに常にコミットしてエネルギー使ってる人々には、尊敬しか無いです。

 また同じ話で恐縮ですが、中学生の頃、篠原先生に教わった、
「女の幽霊が歩くと、裾が引っかかって炭取りが回った」
(炭取り=竈の炭を囲炉裏に持ってくる片手鍋みたいな道具)
という描写、この「炭取りが回る」ことによってこの画面が劇的にリアリティ・アップし、幽霊の実感(?)がいや増し、恐怖や不気味さが湧き上がるんだ、と小林秀雄が柳田国男の描写を激賞してて、先生が文藝部で
「炭取りを回さなあかん!」
と力説されて、無垢な少年であるところのエテクシは「まったくそのとおりだ」と痛く感心して幾星霜、少年老い易く芸成り難し、ようやく
「やっぱ炭取り回さないとダメですよね3先生!」
と腑に落ちた次第です。
 あれ14歳だったと思うから36……うわぁ……

 さっきのオタクコンテンツの例で言うと、幽霊が黒髪ツインテールでオッドアイでゴスロリ着てる、っていう描写はそれはそれでいいんですよ、いいんですけど、それだけだとその幽霊はそこに突っ立ったままなんです。
 その子が、バン!と部屋のドアを開けて
「あー、○○、また深夜ラーメンにニンニク入れた。
 くっさ」
と罵倒してくると、バチッと接続されますでしょう貴方の現実に。
「いいだろ別に顔突き合わすわけでもなし」
「……顔突き合わせられなくなるじゃん……」
 ほら!
 来た! 近く来たよ!
 だから僕はゲーム、特にビジュアルノベル系や、RPG系のゲームにとても関心を持って、こんなことになっちゃってしまったわけでござる。

 それはいいんですが、まあ世阿弥師匠も言ってることだし、小林秀雄も力説してるくらいだし、やっぱりここはだいじだと思います。
 むしろここさえしっかりしていると、接続先は別に普通のことしか起きてなくても大丈夫な気がする。
 自分の世界が広がる、ってことに対して人間はおそらく、特に若いうちは、本能にも似た欲求がある、ような気がするんです。
 知識欲・情報欲と言われますが、それを使って何をする、何かのために何かが欲しい、というよりも、ただ世界が広がるのが楽しい・気持ちいい・満たされる。
 年齢は関係ないかな、そういう志向の人と、いつもと同じが好きな人と、でグラデーションがあるのかもしれません。

 では具体的にどこをどうするんだ、というと、それはその作り手の個性・来歴・持ってる知識や技術・やりたいこと等等によって違ってきます。
 あたりまえですよね。
 ですからここの、「接続の工夫」について一般解が無い、というところが創作の一番むずかしい点で、当然、教えられもしない。師匠が居たとしても「私はこうした」とは言えますが、それが弟子にフィットするとは限らない。まあ芸事はなんでもそうですけど。料理でも刀鍛冶でも鍼灸でも。
 物理作成技術の細かいところは無限にあります。
 で、心構えみたいなところもその人の数だけある。
 だから、その二つをつなぐ、イメージを現実にする接続技術、みたいなところも当然無限にある。
 自分で見出すしかない。

 わはは、そりゃここ回避したくなりますね。

 まあちょっと肩の力を抜くなら、それもきっと限界があることで、そこがいかに優れていてもイメージの強力さに負けることもあるし、強いソウルが溢れてくるようなものに圧倒されることもあるし、コダワリ過ぎは何でもよくないですね。

 ここまで書いてきても、見果てぬ夢を見ているだけのような気もするし、もしそこが本当にキモだったとしても人生の幕が下りるまでにあるていどモノにできるのかどうかもまるで見当もつかないし、この話題そのものが、幻のようです。
 どこにも接続されてないような。
 いや、まあ、すくなくとも僕の拡張現実ではある、とは思います。
 どうですか?
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2022年03月05日

V=R


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「メタバースってセカンドライフと何が違うん?」
と虚空に問うおじいさんですどうもこんばんわ。

 VR=ヴァーチャルリアリティ、AR=オーグメンテッドリアイリティなどなどこの辺の技術が次の金脈だ!と、金鉱掘り達がわっせわっせとマイニングしていますが、「なんとかリアリティ」だってそもそも現実=リアルではないでしょうか。

 わたし30代の頃『FF11』というMMORPGをずっとやってまして、期間ではおそらく11年ぐらい、実時間ではプレイタイム見ますと370日以上、つまり1年あっちの世界(ちなみにヴァナ・ディール言います)に留学?赴任?していたんですが、もうリアルですよ。
 今でも思い出す、フルアラ18名ギリギリの難敵NMとの死闘、ヒーラーが盾を庇って倒れ、その盾も不死技切れて倒れ、ターゲット取ったアタッカー達が無残に骸を晒していく中、最後に残った黒魔道士(ヌーカーが残るな)の私がですね、スックと立ち上がって(休んでたんか)無限魔力技発動、最後の最後で最強魔法をぶっ放して最後1ドット削って倒す。「やったーーーーー!!!」流れる歓喜の声声声、
「わたしヒロイン!!」
の高揚感。
 あれは現実でございます。

 まあそこまでではなくても、マンガ読んで・小説読んで・音楽聴いて・名画観て・その世界に没入する経験は皆さん毎日のように経験されてるでしょうし、広げればスポーツだってそう。あるいは、ニュースひとつだってそうと「拡張現実」と言えるかもしれません。
 ソローの『森の生活』みたいなのしてたなら、ウクライナとロシアがどうなろうと何も知らない。

 コンテンツづくりというのは、この、
「誰かの現実(人生)を拡張するもの」
という視点で観ると、わりと素直に尊いと思えることですし、古今、それこそアルタミラの洞窟の時代から、上手に大きく拡張できる技術やセンスを持つ人が高い称賛を受けることも納得できます。
 近代以前はもとより、現代でもコロナ禍ひとつで電車に乗って隣町にも行きづらくなる、人間にはその程度のモビリティしかなく、月や異世界はおろか、昭和初期ぐらいなら「海を見たこと無い」という人が山のように居たものです。
 でも、そういう人たちでも「海」を経験できる……というか、海という現実を自分の現実に付け加えることができる、そのための大変強力なツールが、コンテンツです。
 もちろん教科書や百科事典で「海」を知ってもいいわけですが、それよりも映画でTVで小説でアニメでラジオでゲームで最近ではSNSなりなんなりで、様々な角度から「海」を感じると、自分の現実に付け加わる「海」がより豊かに大きくなる。

 反面、そういうご時世ですから、逆にさして欲しくもないのに降ってくる「現実」に振り回されもします。特に戦争なり災害なりの大事件が起きますと、文字通り洪水のように「求めてもない現実」が降り注いで、気分が悪くなったりもします。小狡い輩がそれを利用した言動をして、ビューを集めたりもします。
 でもそういう状況下でも、善意すくなくとも悪意抜きでちゃんと作られたコンテンツは、アジール=避難場所になる、少なくともそれをしばらく忘れさせてくれる解熱剤にはなる。

 というところを考えますと、それらコンテンツ製作の方針として、
「拡張現実として取り込みやすい」
みたいなところをめざす、のも手かもしれません。
 言ってて茫漠としてて「どないすんねん」という感じですけど(笑)
 ひとつ、昔から思うのですが、
「五感にアプローチ」
というのはあるんじゃないかと思います。言うまでもなく、
 見える・聴こえる・触れられる・嗅げる・味わえる
ですが、それらがやれているような感じになる。
 特に、例えばマンガだと視覚の点ではみなさん一生懸命工夫を凝らし心血を注ぐ、わけですが、それ以外の四感が立ち上ってくる、ようなものはなかなかありませんね。グルメ漫画数ありますが、ホントに美味い物が目の前に出現して・喰えて・超美味い、という気になれる作品は、もちろん読者によりけりでしょうけども、そんなにあるようには思いません。
 でもそこについても、意識して工夫が凝らされているのと、ぜんぜんハナから何もしない、というのとでは、長い目(?)で見て大きな違いが生じる、だろう、と思うのです。

 わたしがこういう小文をしたためるときにいつもまるでラジオ・パーソナリティかなにかのように、喋り言葉に近い文体とディテールとリズムで書きますのも、つまり「人の話を聞いた」というリアル現実(笑)に近い実感を得てもらうことで、自分の現実が膨らんだような気がする、といったところを狙っているのかもしれません。自分でもわからないのですが。
 それだったらラジオでいいじゃん、という話にならないのは、文章で・まるで聴こえてくるようだ、という点で二感にアプローチできる、からです。(もちろんどっちつかずになる危険性はある)
 司馬遼太郎先生の文章は視覚刺激性能が高く、読んでるとまるでバルチック艦隊が距離八千に迫ってくる気がするのですが、それが意図的なものかどうかはともかく、結果として大作家・大作品群になっているひとつの大きな理由ではないか、と思います。
 くどいようですが、やってやれるかどうかはわからないですが、意識してるかしてないかでは差がある、と思います。
 思います、というか信じます、ってレベルですね最早。

 個人的には、そこの「繋ぐところ」っていうのにコダワリ倒して来たつもりで、それがハマる人にはハマったんじゃないかと思うのですが、確証はありません。どのぐらいできてるかどうかもわからない。ひょっとすると全部幻かもしれません。

 というところで最初に戻ると、幻も、見た以上はその人の現実です。
 いい幻をたくさん見れたり、いい幻を一生懸命追いかけることができたら、それはいい現実つまりいい人生を生きたってことになるんじゃないでしょうか。追っかけるのがVtuberかトロイの遺跡かでそんなに違いはない。
 ない?

 終活で部屋片付けてたら本が出てきて
「わーこれ楽しかったなぁ……」
とホッとして貰えるような仮想拡張幻現実を、つくりたいですね。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2022年03月04日

すべて捨てよ


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最近の僕の仮説なんですけど、
もうこれ「構成」とかって全部捨てちゃうのも手かもしれません。

結局、
「おもしろさ」ってなんだろう?
という疑問に対して、
「きっとそれは作ることができるもので、作り方がある」
という前提があるから、
「答えを探そう」
ってことになるわけですが、
この前提がもし間違ってて、
「そもそも作ることはできない」
だとしたら?

もし「おもしろさ」のキモがわかったとしても、
それが人間の手で(僕の手で)再現できないのであれば、
わかり損(?)ですよね。ガックリするだけで。

20年前後ウニウニ考えて調べてやってきて思うんですけど、
「これ作れないんじゃないか?」
もちろん文章(なり音なり画なりなんなり)を作ってるのは自分なので、作っては居るんですけど、作為的に
「おもしろいものを作ろうとしておもしろいものができる」
ということは無い……ような気がしてならないんですね。

創作ってカオスそのもので、
決定論的な方程式に放り込んでも、
ほんのちょっとした初期値の違いで、
まるで違う軌跡が描かれるわけでしょう。
同じように、
キャラとか世界観とかストーリーとか小ネタとか
いろんな角度・要素からそれっぽく構えても、
描かれる軌跡が美しい=おもしろいとは限らない。
ハリウッドでも、
最近は減りましたけど、
大ネタでスター集めて大予算で大ゴケすることありますからね。
おもしろい、っていうのはそういう問題じゃない。

じゃどうすんだよ!
と自分にキレ気味にツッコんでみると、
もうこれ、構成とか仕掛けとか一切合切ぜーんぶ捨てて、
「そんとき思いついたものを、
 できるだけシンプルに描く」
しかないんじゃないか。
「勝つと思うな思えば負けよ」
は柔の世界だけではなくて、なんにでも共通でしょう。
となると、
「おもしろくしようとするな、
 思えばおもしろくなくなる」

古武術の甲野善紀さん、
一時著作たくさん読んだのですが、
印象的だったのが
「構えると読まれる」(意訳)
という示唆で、
パンチでもキックでも大振りすると軌道読まれて避けやすい。
『ガンダム』の名シーンでグフを駆る歴戦の勇士ランバ・ラルが
アムロのガンダムを誉めてましたね、
「正確な射撃だ……
 が、それゆえにコンピュータには予測しやすい」
結局、
作為持って「こういう流れで」と思った瞬間、
読者に読まれて待ち構えられてしまう。
もちろん、吉本新喜劇のように
「それ」を待って観客も一体になってワーッと盛り上がる、
という芸というかエンタメもあるんですけど、
それはメタな話というか「作品としてどうか」という話からは若干切り離して考えないとややこしくなるのでここは置いといて、
つまり
「あっ」
という驚き、の連続、がコンテンツに触れる楽しさの大きな部分を占めるのであれば、作為を持った瞬間、その驚きの可能性をだいぶ削ってしまう。
この情報化時代、
作り手も受け手もだいたいおんなじもん観てるんで、
ほんのちいさな予兆すら掴まえて、
「あああれですね」
みたいにどうしても思っちゃいます。

この3月で『おかあさんといっしょ』の『ガラピコぷ〜』が終わるそうなのですが、そりゃもうガラピコの星から調査隊かなんか来てガラピコ見つかって、しかも実は王子様的な絶対に帰らざるを得ない人で、母星に帰るしかなくて、みんなで大騒ぎして涙のお別れしたあと、ちょっとして外交使節として戻ってくるんですよまちがいない。

その「飽きさせない」という恩恵以外にも、
・自由が確保できるので作ってて楽しいし楽
とか、結局普遍的なおもしろさはパターンがあるので、
そこからの脱却は必然的に独自性を喪わせない効果があります。
・独自性、ユニークである
というのは創作物にとって極めて重要で、
というよりそれさえあれば他は要らないとさえ言える重要な要素なので、
それを阻害しない、
しらずに阻害することを予防できる、
というだけでも大きい。

やり方、システムをなぜ導入したいかといえば、
楽をしたいとか効率化したい、の他に
「そのシステムによってブースト(ドーピング)したい」
という欲があると思うのですが、
実はこれは本質的に間違っていて、
効率が上がってもピークパフォーマンスは上がりません。
で、
創作で特に必要なのは一瞬のピークパフォーマンス、
一言の決め台詞
一コマの絵
耳に残るワンフレーズ
であって、それがないものを何百何千何万と量産しても
なんの意味もない。
ここの勘違いがこの30年間坂道を転げ落ちる日本の元凶じゃないかと思ったりもするのですが、それはさておき。
断捨離がこんまりが流行ってやってみた方も多いかと思いますが、
そんなに幸せにはなりませんでしょう?
あたりまえですよね、
日常を効率化して空いた時間をエネルギーを、
「使う先」
が何より重要で、それがないなら浮いたそれらを
twitterやtiktokで空費するだけです。
なので、
こと創作に関してはそういうものは無い、
というか、
要らない。
もしあったとしても。

……というようなことで、
作為を放棄して、
「描けるように描く」
強いて言えば
「描くべきものだけを描く」
という点のみに作為を発揮する、
あるいはそういう姿勢を保つことを作為と呼ぶ、
というような態度で
しばらくやってみようかな、
と思う所存であります。
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2021年08月06日

ソデトーク #06 『リアリティのもたせ方』


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 コンテンツは「ヴァーチャル体験」でもあります。
 登場人物やイベントを俯瞰して観るのみならず、まるで自分が参加しているかのように錯覚してのめり込む。
 キャラと喜怒哀楽を共にし、時間を忘れ、終わったあとも長い時間それを「楽しい記憶」として持ち続ける……
 いいですね。
 そういうのなかなか無いですが、誰しも一つや二つ、いやジャンル問わなければ10や20は挙げられるはず。

 で、そう考えると、作り手としては2点考えるところがある。

・どうやってのめり込ませるか
・どれだけ深くどっぷりのめり込ませるか

 2点じゃなくてそれ1点ではないのか、と思われるかもしれません。
 でも長年いろいろ観て作って、この2つは違う要素が効いてるような気がします。
 ホームランとヒットの打ち方は違う。
 雑な例えやな(笑)
 いや、実は僕もずっとここは言葉にすれば
「リアリティを持たせる」
という一言で表せるので、それを検討してればいいんじゃないか、と思っていたんです。(僕の文章がお好きな方なら『炭取りを回す』という表現をよくしているのを思い起こされましょう)
 でもね、それしんどいんですよね。
 言うなれば『龍が如く』とか『GTA』みたいな3Dワールドほっつき歩き系のゲームを作るようなもんで、全部、ぜんぶ作り込まなあかんのです、家入ったら見上げた天井の模様までね。草むらで跳ねるバッタとか。

 要らん。

 異世界転生ものがラノベで猛威を奮って久しいですが、あれって上の2点でいうと前者の「のめり込ませるか」を、言い方悪いですが諦めてますよね。
 タイトルに「どんな転生か」を丁寧に明示して、このシチュエーション気になったら読んでくれ、そうでないならまたのお越しを。
 で、世界の方は作る。
 ただしその世界の方は、あくまで「こういう世界」と作者が規定している世界なので、「この世界の天井に模様はない」「この世界の草むらにはバッタ跳ばない」と言い切れば、それらは作らなくていいんです。

 言い換えると、「リアルと地続き」だからリアリティがある、という考え方を捨てて、「はいこのゲートくぐったらおとぎの国!」とすれば、だいぶ負荷が違う。
 いや、負荷が軽いわけではなくて、そのおとぎの国づくりの方に集中できるというか、より現実に引っ張られない自由度を得るというか。

「これはこういうものです」
という約束事を決めて、それでものっかって来てくれるなら一緒に楽しみましょう、というのは別にオタクコンテンツの特徴でもなんでもなくて、たとえばAppleのプロダクトとかそうです。
 ハードル結構高くて、ただそれ越えると楽。

 くりかえしになりますが、私もずーっとここ、
「いかにリアリティを全編に渡って持たせるか」
にコダワリを持ってやってきてて、まあ別に後悔も無いしところどころ上手く行ったと自画自賛するところもあるんですが、加齢からか(ここ笑うところですよ!)
「……いや待てよ、そこそんなこだわらんでもええか……」
という気が最近してきたんです。
「これがこの作品のリアリティなので
(とタイトルなりツカミのシチュエーションなりでハッキリ言い切って)
 これで一緒に楽しみましょう!」
というやり方もあるなあ、と。
 そうすると、現実に照らし合わせて「いやさすがにそれは嘘くさいか」とかなんとかいちいち考えなくても済む。
 そもそも現実が最近はものすごいですしね。
 全世界パンデミックなんてSFでしか経験ないですやんか……

 えっ。
 ひょっとしてみなさん実はそんな風に作ってらっしゃるのかしら?
「ながたランドへようこそ!」
みたいな。
 だとしたらおれの20年はいったい。

 まあ『ラ・ベットラ』の落合シェフはもともとフレンチの修業でフランス行ってて、帰りイタリアでトランジット待ちが4日もあってしょうがないから街出て飯喰ってたら「ダサいけど毎日食いたくなるなこれ……」と感心して突如としてイタリアンに宗旨変えしたらしいですからね。
 フレンチ修業は決して無駄ではなくてもちろん大いに活きてる。
 ミシュランで星取った寿司屋の大将が実は寿司歴1年で、「えっ」と思ってよく聞くと和食の料理人を10年やってる。つまり寿司職人においてにぎりの技術はほんの一部で、それはセンスあれば1年も要らん程度の技術で……

 なんかこう、神秘性を持たせたいわけですね、物語性というか。
 でも実はたいていの物事はフィジカルや数字で決まってて、8番バッターでも全打席、バレルゾーンに入れてホームラン狙うご時世です。

 なんの話でしたっけ。
 もちろん僕の話なので念頭に置かれているのは文章作品ですが、絵でも音楽でもなんでも同じだと思います。
 リアリティ、だいじなんですけど、全編に渡って提供する必要も義務も無く、
「こんな感じで行こうと思います」
という宣言、みたいなイメージですね。

 だいぶ肩の力が抜けました。
 抜けすぎて筆を持つ力が入りません(あかんやないか
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2021年07月29日

ソデトーク #05 『巧さ無用』


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●学習によって得た「巧さ」は、コンテンツにおける最大価値「唯一」「アイデア」と相反するか、少なくとも関係がない。
「巧さ」によって引き上げられる得点は、1割、10%といったオーダーだが、「唯一」だと0が1になるし、100が200になったりする。
 つまり、もちろん蔑ろにすべきではないものの、「そこに力を割けば良くなる」という考え方は捨てるべき。

 そして「唯一」を手に入れるためには、「巧さ」を手に入れるのと違うアプローチが必要。ちなみに「巧さ」はある程度(3年ぐらい?)やると手にできる。最悪手にしなくても、唯一性が高ければなんとでもなる。外部化(可能なパートの外注など)もできる。

 しかし、「唯一」には、他者が感じる「おもしろさ」に直結する、という保証はない。初めてのものだったり唯一のものだったりするから。だから作者が「これは!」と感じることが大事、というか全てで、それは他者(編集、P、コアファン)にはできない。
 ここの齟齬、作者は面白いと思っているのに理解されない、という点が創作の大きなハードルで、そこを適切に回避する方法は無い。ただし、「──というハードルがある」と前もって理解していると、いくばくか精神的平衡は保てる(だろう)。

 創作者は不安なので、「保証された面白さ」を求めるのだが、それは上記のように「ない」。おもしろさの源泉は唯一性にあり、それは生み出されるかどうかもわからなければ、生み出されたとして理解されるかどうかもわからない。
 なので毎回、保証されない面白さ(の源泉である唯一性)を求めて彷徨うしかない。
 それは旅と旅行の違いに似ており、優れたガイド本で計画を立ててそのとおり動くとある一定の喜びが得られるが、だいたいそういう旅行でも後年覚えているのはハプニングやアクシデント、予想外の喜怒哀楽、道連れとの会話であり、ガイド本のおかげでは「ない」ところ、つまりその旅行をただ一つのその旅行たらしめている部分にこそ価値がある。

 さらに蛇足を重ねると、作為、「面白くしてやろう」という意識を持つと、だいたい「既にわかってる面白さ」へ引っ張られてしまう。そしてより強い面白さであるユニークネスから離れてしまう。
 作為は(できれば)持たない方がよい。

●「速度・強度・精度で勝負が決まる」
というのはスポーツのような「決められたルール内で出せるパフォーマンスを競う」場合の話で、それですら伝説のビリー・ビーン率いるオークランド・アスレチックスのように「パフォーマンスの物差しを変える」ことで旧評価における「速度・強度・精度」では多少足りなくても、十分戦える集団を作ることもできる。
 これもまたアイデア、イノベーション。

●以上を一般的な生活にも拡張すると、人の日々とは、
「私が(唯一の)私である」
というところに最大の価値がある。その人がどのようないわゆる「良き性質」を持っているかとか、どれぐらい社会/地域/ネットワークに貢献できるか、といったことはそれに比べると、かなり小さな価値しかない。
(思い出せ、絵が巧い、より、その人ならではの絵を描ける、の方が遥かに強い)
 したがって、「私である」ということを妨げるようなアクションは避け/離れ/逃げる。わかりやすいのは暴力、ハラスメント、抑圧だが、学習のようないいものでも一歩間違うと(例えば過剰適応、過学習)マイナスに働く。
 さて私は「私で無くされるストレス」から今日一日フリーで居られただろうか。寝床で思い返してみよう。

 ちなみに、「私である」ということを強化する方向があるのか、方法論があるのか、は今の僕にはわからないです。無くはない気はするのですが、それよりも「そうでなくさせる」という力から逃れる方が先だし、それに忙しいですね。そこからほとんどフリーだな、と思えるようになってから、考えましょう。

 また会おうね(アンディ・デイ風に
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2021年07月06日

ソデトーク #04 『プリキュアは嘘をつかない』


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今季の『プリキュア』すなわち『トロピカルージュ!プリキュア』、楽しんでますか?
 ファイルーズあいさん演じる今年のセンター・サマーことまなっちゃんのノー天気な声がノー天から響くアバンから、Machicoさんの切迫感溢れる歌唱が叩きつけられる(しかも画面演出はヴェテラン・大地丙太郎)OPが始まると、日曜朝から「なんだか今週はいい一週間になりそうだぞ!?」感が噴き上がってきますね。きませんか?

 個人的には、昨季の『ヒーリングっどプリキュア』から「プリキュアらしさが戻ってきた」と思っています。その「らしさ」とは何かというと、
「プリキュア以外の嘘はつかない」
という点です。

 脚本のべからず集・鉄則集でよく言われるのが
『嘘は2つつくな』
です。簡単に言うと、ウルトラマンと仮面ライダーを一緒に出すな、と。
 結局コンテンツなんて嘘なわけですが、もちろん楽しむ側もそれは百も承知、だから1つめの嘘は飲み込んでくれる。
 ところが、2つめとなると、だいたい「ちょっと待って」てことになる。
 1つめの嘘を前提として脳内・心内世界を構築中に、もう1つの嘘も考慮する負荷が掛かると、醒める(覚める、かな)んでしょうね。

 プリキュアのいいところは、
「ごく普通の女の子が、大変な事態に巻き込まれて、なかばしょうがなく、しかしほおっておけなくて、プリキュアになる・プリキュアをやる」
っていうところです。
 なぎさもほのかも、それを継いだ咲・舞ものぞみたちも、胸に7つの痣があるとか、百代前は伝説の戦士だったとか、特にそういった理由もないのに「行きがかり上」プリキュアに変身して、その後それを続ける。
 だから、
 プリキュアじゃない時にのほほんとごく普通の日常生活やっててもおかしくないし、最終決戦前後まで「敵の動向を探る」とかそうした攻勢に出ないのも納得が行く。望んでやってることじゃないので。

 ところがマンネリ打破のためか、『魔法つかいプリキュア!』で大きく方針を転換して、も1こ嘘ついてきたんです。
「この世界には魔法つかい達の別世界がある」という。
 もちろん「いままでの妖精ワールドをちょっと拡張しただけじゃないか」と強弁できなくもないですが、あの作品、たとえばプリキュア要素を無くして魔法学園メインの、
『魔法つかい みらリコ!』
なんて作品にしてもイケちゃうので、やっぱりそこには今までとは質的違いがある。
 で、これがおそらく特にメインターゲット層の未就学女児にウケたんでしょうね。そりゃそうですよ、ぶっちゃけ『ハリー・ポッター』ですからウケんわけがない。そこから4シーズンほど、プリキュアの他に濃いめの嘘をつく。
『アラモード』ではパティシエになるし、
『HUGっと』ではタイムトラベルやるし、
『スタートゥインクル』では宇宙に飛び出す。

 これをやるとですね、派手な世界観に負けないように、とキャラも濃くなりがちです。マジカルは名家の百年に一人級の天才ですし、パルフェは七色の光を身にまとう天才パティシエですし、大女優の娘にメダル級のスケーターに、アンドロイドに宇宙人に宇宙怪盗に……
 上述の「普通の女の子が」に目をつぶってそれそのものは受け入れるとしても、その煽りを喰うのがセンター、ピンクで、みらい、いちか、はな、ひかる、みんなもちろんいい子なんですが他が濃すぎて目立たない。全員濃いめというと以前の『スイート』や『ドキドキ』もそうなんですが、その真ん中であるところの響もマナも負けてないぐらい濃くて負けてない。
 やっぱりおはなしはセンターがMCとして回していくものなので、真ん中の軸がふわっとしてるとなかなか話が回らない。回りにくいからサブキャラやゲストにも濃いのが出てきてますます世界が極彩色になり、「これもうプリキュアでなくていいんじゃないかな……」

 それをギャッと元へ戻したのが昨季で、その流れで今季はさらにセンター・まなつがシリーズ屈指の能天気で、人魚の国がたいへんだ、つーとんのにメロンパン食いながらいろんなイベントやってトロピカってるわけです。
 これでこそプリキュアになってからが映える。
 画面的にもサマーは久々の白キュアで(立ち位置から「ピンク」に分類されると思いますが物理的には白)原色(紫・黄・赤・青)の真ん中に白が居るとまさにジャッカー電撃隊後半のビッグワン
 古いなあもう!!
 どこからどう見ても主役、どこからどう見ても正義の見方です。
 特に変身後は吊り目気味で、こういうキリッとした目は過去センターではブラック(『ふたりは』)とメロディ(『スイート』)しかおらず、こちらも久々の男前系です。

 プリキュア好きすぎてちょっと脱線気味ですが、とどのつまり言い換えると、
「やらない」
っていうのも重要な「やらなきゃならないこと」で、嘘いっぱいついた方が面白さ上がりそうに思っちゃうんですが、そこガマンして1つの嘘を際立たせる、というのが骨格考えるときの基本的な方向性だと思います。

 でも、ちゃぶ台返すようですが、おもしろけりゃなんでもアリで、そもそも上述のように『魔法つかい』は当たりシリーズに分類する人が多かろう作品ですし、いやそもそもプリキュアっていつもオールスターズやってんじゃん、という話になったり、かくいうエテクシもその昔『Routes』っていうもホンマにガチで「嘘2つ」の作品を担当させられた経験があれほんとシャッチョさんとまるいさんがどっちもゆずんなくて板挟まれたエテクシがホットサンドのように潰れて具をはみ出させながら……

「おもしろくないことはないんだけど、なんかちょっと胸焼けするな」
と思ったらだいたい嘘のつきすぎです。この視点でサラッと批評すると、
「おおっ」
と思われますよ(笑)
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2021年06月29日

ソデトーク #03 『こんまりの表と裏』


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ソデトーク #03
『こんまりの表と裏』


先日ヨダレ垂らしながらweb見てましたら、こんな記事↓
https://courrier.jp/news/archives/248811/
ドイツ人サステナブル政治経済学者さんが、いまワールドワイドで荒稼ぎしているこんまり=近藤麻理恵さんのメソッドについて

「……そもそもそんなに買わなきゃいいのでは?」

という身も蓋もないツッコミをしてて、ゲララッと笑ってから「ハッ」として飛び起きて書棚の『人生がときめく片づけの魔法』(近藤麻理恵)を出してパラパラめくる。

「書いてない!
『買うな』って書いてない!」

 これですわ。
 この本が超ベストセラーになり「こんまりメソッド」が世界でもてはやされる理由。2点あって、

1「捨てる」と「買わない」のいっぺんに2つやるのはしんどい
2(おそらく)経験上、溜める人に「買うな」は無力

 だってそうでしょう、そのへんの雑誌の片付け特集・収納特集・断捨離特集・ミニマリズム特集、まず「余計なもの買うな」って一生懸命諭してくれるでしょう? で、それは間違いなくそのとおりですよね。疑いなく。
「入」が多すぎるから「出」が追っつかないんであって、「出」の最適化も図りながら「入」の調整もせなあかん。家計をフィナンシャルプランナーに診てもらうのであれば「入」がほとんど動かせないから「出」だけ云々すればいいですけど、モノの所有は違う。入もコントロールできる……

 できないんですね、たぶんね(笑)
 こんまりさんはこの本手掛けるまですでに片付けコンサルタントとして多くの実績を持つ方なので、実践の中で
「ああ『入』のこと言っても無駄だな」
というコツを掴まれたんだと思います。
 で、そこがあの本の、こんまりメソッドのイノベーティブなところで、2つ言われたら「しんどい」と思うことでも、1つだけ、捨て方だけ言われたら「なんとかなるかな」と思ったりする。
 つまり表技が例の『ときめきで決めろ』で、裏技が明言されてませんが明言しないということはつまり『買う方は好きにしろ』なんです。

 表技・裏技が決まってると効果的で、野茂英雄は清原のバットを叩き折る剛球ストレートあったればこその、古田敦也を落ち玉中毒にさせたフォークボールが効くのであって、明示するしないは別にして表が用意できたら(まあそれがそもそも難しいんですけどね)、ぜひ裏も意識したい。

 もひとつ例をあげるならダイソンの掃除機。
 あれは表がサイクロンで、裏がクリアビンすなわち透明で取ったゴミが見えるデザイン。今でこそそれがスタンダードになってますが、当時はダイソンしかやってなかったはずです。(もちろん紙パックか布フィルター式がほとんどだったから、中見せてもしょうがないって意味もあった)
 これがね、使ってみればわかりますがすごいイイんですよ。
「いま掃除した結果が見える」
っていうのは紙パック式には無い超便利・超満足機能で、紙パックに戻れないのは、サイクロンの吸引力持続よりも僕個人的にはクリアデザインの方です。
 でもみんなサイクロンの話ばかりする。
 ダイソンも(おそらく)わかっててサイクロンの話ばかりする。
 してみると裏は気づいてても言わない方がいいかもしれませんね。
 Appleなんかも表の話しかしないんですけど、裏が強いんですよ。iPhoneみたいなモバイル機器なら手触りみたいな身体性とか、あるいはiOSなら4〜5年前の機種(今でいうと6sとか)でも全然イケるUIの演出とか。

 いや、『人生がときめく片づけの魔法』を読んだ時に、主題である「ときめきで斬る」という判断基準の簡単な一元化はとてもわかりやすいしキャッチーだし、たくさん書かれてる直感に反したTips、たとえば「書類は全捨て」とか「収納は買うな」みたいなのもいちいち合理的だし、とてもいい本だと思ったんですけど、だからってそんなバカ売れするような「違い」があるかなあ……と思ったんです。
 なるほど、「ない」「言わない」っていうのも違いになるんだなあ、と。

 ちなみに僕も何度か大片付けしたんですが、あんまり人生はときめきませんでした。2週間風呂に入ってなかった男が風呂入って体隅々洗っても、特にイケメンになるわけではないので特に何も起きません。お片付けはあくまでディフェンスで、だからこそめんどくさかったり苦手だったりする人が多いわけで。
 ……というような話を妻にしますと

「わたしの必勝法は
 『買わない』
 『管理しない』
 『躊躇なく捨てる』」

 まあこっちの方が最近風かなあ。アニメを配信で一気観して終わり、みたいな。昔は本編をリアルタイムTV前正座して待って観て、気に入ったらLD/DVDを揃えて、シュリンクにカッター入れてそーっと取り出して……
 してみるとこんまり先生のメソッドもゆくゆくは若い人に「は?」と言われちゃうんだろうか、いや「世にコレクターの種は尽きまじ」と言いますから、ある一定割合で物に情報に溺れる人は居るのか。

 そんな話です。
 甘い話にはだいじなことがボゴッと落ちてたりする、という言い方もできる。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2021年06月06日

楽研 01 enjoy!


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●enjoy!

ぼく「男性更年期終わったかも! なんか寝れる!」
つま「おじいちゃんやない!」

 お若い方にはおわかりにならないかと思いますが、年取ると寝れなくなってくるんです。
 えてくし44で結婚したんですが、その頃から
──余談ですが(男の)厄年ってのはよくできてますねあれ。35ぐらいから下り坂入るんですけど、あの40過ぎぐらいでガクッと階段を一個降りる感じです。ここ降り方ヘタすると骨折る。──
最長連続睡眠時間が5時間ぐらいになっちゃって、目が醒めます。まだ疲れてても醒める。
「ふぁ〜あ、よく寝た」
「きもちいい朝!」
 それこそ夢のまた夢。
 まあ「年取ると寝れない」というのはよく聞くし、『アメトーーク』の「おじさんたち」の回でも同年代の芸人さん達が「寝れない」とおっしゃってて、まああんなハードな仕事されてる方々が寝れないなら僕みたいにのほほんと生きてたらそりゃ寝れんだろ、とか思っていたのですが。

 体調が戻れば寝れますね。
 寝るのには体調がそこそこいい必要があるっぽいんですけど。
 ニワトリタマゴ!

「カフェインは16時まで」とか「朝飯は眠りのトリガー」とか最新(?)の知見を用い、1ヶ月分で1万5千円ぐらいする漢方薬をもう2年以上ガブ呑みし、子供の散歩で午前の日光にたっぷり当たって、まあつまりのたうち回るようにしてなんとか「寝れる」閾値を超えたみたい。

 最近寝るだけなら8時間だって寝れる。
 起きても(起こされても)すぐ寝れる。
 どう・だー!

 ……と、テンションが上っちゃうぐらい「寝れる」というのはステキなことです、若い衆。
 有名な話ですが水木しげる先生はお年を召しても「10時間は寝る」と豪語されており、「手塚や石ノ森は寝ないから早死したんだ」と身も蓋もないエッセイマンガ描いてらっしゃいますが、あれ真実だと思います。

 寝れると、また体力が回復して、より寝れる。
 ポジティブ・スパイラール。

 で、これもまたニワトリタマゴな話なんですが、
「元気出てくると楽しむってことができる」。
 楽しむっていうのは、楽しいから楽しめるんじゃなくて、楽しむってことができるから楽しいんです、たぶん。
「悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しいんだ」と同じ。
 だから、楽しめるだけの最小限の元気が要る。

 その元気が無い場合は、まずその「ミニマム元気」を取り戻すためにすべてをうっちゃって回復に努めるのが良いでしょう。
 だいたいストレスの原因は仕事か人間関係かネットの見過ぎですから、仕事辞めて嫌な人間との縁を切ってスマホのウェブブラウザを5ページ目に移動するのです。いっぺんに全部は無理でも、ちょっとずつでも嫌なこと切り離していく。
(でも、あまりひどい場合はお医者さんへ。自分で見つける力なくても、身近な人に見つけてもらってください)
 毒飲んでさらに解毒剤飲んだ状態が健康とは言い難いように、子ねこちゃんが飼い主のジーパンよじ登る動画観て癒やされるのは確かですが、それは元気とは言わない。お酒と一緒で麻痺させてるだけです。
 ……とまあこのへんは世にいくらでも参考書があるので手あたり次第にやってみてください。受験の参考書と一緒で、自分にとっての「あたり」が出るまで引き続けるのです。

「『楽しむ』とか言うけど、そんなこと意識的にできるかよ。
 だいたいそんな楽しさなんて嘘っぱちだろ」
と、わたくしもほん1ヶ月前まで思ってましたよ。
 いや。
 できる。
 楽しめる。
 楽しめないのは、楽しむだけのミニマムな元気・勇気・やる気が無い状態で、それは疲れすぎです。休みなはれ。

 で、寝れるようになったり食べられるようになったりしてくると、
「あっ、楽しめるかも」
と思う瞬間が現れてきます。
 料理中に包丁がスッと巧く入って楽しい、とか。
 コーヒーの蒸らしの香りでフーッと天を仰いで楽しい、とか。
 自転車に乗るコツみたいなもので、その「楽しむ」感覚を思い出せば、あとはちょっと強引でも自分から意識を向けて、ちょっと圧(プレス)を掛けて、強度(インテンシティ)を上げて……すると、さらに楽しくなってきます。ここもポジティブスパイラルですね。

 あ、ここで思い出したんですが、僕の場合はなんでもかんでも楽しんでる(そして悲しんでる)1歳代の子供にたくさん触れ合ってたのも参考にできたのかもしれません。子供で無くてもそういう人たまーに居るので、そういう人の近くに行って観察してみるのも手だと思います。

 まとめ!
・「楽しむ」にもミニマムな元気が必要。
・「楽しめない」場合はだいぶマズいのでとにかく休め。
・「楽しめる」ようになったらなんでもうまく行く。
 (だってすでに楽しんでるじゃん!)
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2021年05月23日

ソデトーク #02 『書き方・ストーリー編』


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■書き方・ストーリー編


「人間の生活」を自分を振り返りながら考えると、あまり代わり映えのしないフツーの日々が続いて、たまに転機、分岐点となる(と後から理解する)場面が来ます。

 →●→●→……

 作品が誰のものにつけ人生を描くものなら、同じように、分岐点とそれ以外に大雑把に分けられましょう。
 頭絞って考えないといけないのは、主にこの分岐点のところで、あとのところは多少ゆるくてもブレてても無問題、だと思います。
 一から百まで一文一文字ぜんぶキッチリ詰めていくとこれはもう大変なんですが、その必要は多分無い。
 料理でも、炒めものなら火を止めるタイミングだけが重要で、それ以外はだいたいボーッと見つめてるだけか、別の調理をしていたります。火が化学変化を刻一刻生んでるからといって(いやだからむしろ)常になにかしなくてはいけないわけではない。

 だもので、マラソン・ランナーのように、
「次の分岐点」
をだいたい見定めたら、そこまでは適当に遊びながら走ればいい。
 で、分岐点に来たら、考える。

 将棋の手と同じで、何十手先までもは読めないです。
 打った手がどう発展していくかは、打ってみないとわからない。将棋より読めないかも。
 とりあえず分岐点の選択肢を並べて考えて、どれがいちばん盛り上がりそうか、で、エイヤ、と選ぶ。

 ここで「どう」選ぶかはたぶん作家の個性次第。
 僕はいま言ったように「盛り上がり」というかテンションの「駆け上がり」みたいなところをよく重視します。
 あるいは、
「誰も見たこと無い」
とか、
「ズレてる」
なんておかしみを優先するかもしれません。もちろん同じ人でも作品や場面に応じて変えるでしょう。
 あるいは場合によっては、分岐点に来てるけど実は分岐しようもなく、「これ一択でしょう!」てな時もあるでしょうし。

 こうすると(こうなってくると)だいぶ楽です。
 炒めものってある瞬間に香りが変わったり、音が変わったりします。
 僕はそこで次の工程に入るようにしてるのですが、最初はこれがよくわからないんですね。「火が通ったら」とかレシピに書いてあって「わかるか!」とか。「水分が飛んだら」とか。水分の蒸発していく「じゅわーっ」って音が、食材そのものが焦げる「パチパチ」的な音に変わるんです。
 ここだけ意識入れればいい。

『ドラえもん』の最初の方で、タイムパラドックス(ジャイ子ではなくしずかちゃんと結婚すると君が生まれないのでは)を心配するのび太にセワシ君が
「いや、行き方はいろいろあっても到着点は同じだから僕は存在するよ」
みたいなことを言って、幼心に「へーそんなもんなのか」と思いましたが、いまごろになってようやく「そうかも」と思えます。
 これは余談。

 ストーリー作りというと、まず起伏の形を予め決めておいて、そこへシーンをハメ込んでいく……みたいな「ハリウッド脚本術」的なものを思い浮かべるかと思いますが、というかそれはそれでいいんですけど、あんまりそれやると
「はいここで一回うまくいきかけるけど失敗する」
「はいここで恋人と揉める」
てな具合に「配球がバレる」というピッチャーとして一番マズいところへ追い込まれてしまいます。

 お恥ずかしい告白ですが、僕『星の王子くん』の時に、一生懸命キッチリ設計図書いてそこにハメるように作っていったんですけど、かなりしんどかったです。
 よく知ってるようなパターンの引力が凄い。
 よくあるパターンは効果的だからよくあるわけで、効果を求めインパクトを事前に想定していくと、よくあるパターンにどんどん近づきます。
 まずい、と思って外すとてきめん弱くなるので、ベタに戻して……みたいな右往左往をずーっとやってました。

 上記のやり方であったとしても分岐点で「よくある」方を選び続けると、「話としてはよくある話」になってしまいます。
 でも、そこに至る「→」の部分が自由ではっちゃけてたら、まあ結構イケるもんです。
 むしろその場合、通常部で暴れたいから分岐点では安牌を選ぶ、というやり方もある。
 吉本新喜劇とか。

 コンテンツにはフィジカルな面とロジカルな面があって(ここはまたいずれ詰めたいですが)、事前に頭で考えられるのは主にロジカル面。
 フィジカルは現場で本番で無いと何が起こるかわかりません。
 で、それはリアルタイム性の薄そうな小説や脚本のような文章作品でも同じです。
 2歳前の子どもに絵本を読んであげるのですが、同じ本でも読み方、抑揚や声色をデフォルメ掛けて芝居っぽくやってあげると喜びます。
 ないがしろにできません。
 むしろ半分ぐらいフィジカル。
 大谷翔平を見てください、あの100年に1度の天才、センスの塊がムキムキマッチョに作り上げてきましたよ’21シーズン。

 まとめ
・ストーリーには通常部と分岐点があって、
 分岐点がだいじ。気合を入れて考えたり感じたりする。
 通常部はリラックスして好きなように描く。
・分岐点で次を読むのは一手。
 進んでまた一手読む。
 最初から作品全体を見渡そうなんて計算量が爆発して無理です。
・分岐点でのルートの「選び方」こそが作家の個性。
 自分を信じて(ビリーブ
 自分を愛して(ラヴ

 ちょっとおかしなことになったらしめたもの、それこそがオリジナリティってヤツですよダンナ。おめでとう。
 See you!
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2021年05月04日

ごあいさつ

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こちら(Fantia)始めてみようと思います。

 以前からこういうプラットフォームに興味があって、やってみたいなとは思っていたのですが、自分の中で「これってどんなふうに位置づけたらいいんだろう?」と消化できず、指くわえて眺めてました。
 パトロン? クラウドファンディング? サブスクリプション? いややっぱりプラットフォーマーが言う通りファンクラブ?
 それによってどんなものを用意すればいいか変わるじゃないですか。

 ……で、まあふつふつ考えていたんですが、ふと逆に考えて、ご用意・ご提供できるものってまあまあ決まっているので、あとはそれをどのように捉えていただくかは受け手様次第やなあ、と。
 ここで「受け手」という不自然な言葉を使ってますが、ここに「ファン」とか「支援者」とか「消費者」とか「サポーター」とか「ユーザー」とか、好きなお言葉を入れてください、ということです。

 とりあえず、次の2点を中心にやってみたいです。

・ライブ感覚で未完成なブツでも次々載る。
 いやむしろ「途中」ってのが珍しいはず!
・ブツになる前のアイデアやイメージ、なぜそうなったかの裏話もバンバン載せちゃう。
 いやむしろ(以下略

 話はちょっと変わりますが、作品の執筆を、

・前工程(コンセプト練り、キャラ作り、ストーリー組み、下調べなど)
・実作(作文)
・後工程(推敲、構成など)

の3段階に分けるとして、どこに時間かかるか、っていうとモノにもよりますが、僕の場合は前工程です。
 しかもどんどん長くなる傾向にある。
 ところが長くなって良くなるか、といえばそうでもない。というよりむしろ、長々考えてもあんまり良くならないので、さらに長々「もうちょっとなんとかならんか」と考えてしまう、という循環に。
 これはいかんなあ、と思ってました。
 なので、ある程度強制的に締め切りみたいなものが来てくれた方が、いいかな、とも思ったりします。
 以前はコミケ(に同人誌を出すの)が一応の歯止めになってたのですが、コロナ禍でそれも吹っ飛んでしまいましたので。

 あと1つ、いま幼児の育児中でして、まー時間無い時間無い。
 ホント掛け値なし1秒も無い。
 これも深夜に書いてるのですが、育児というのは絶対の正義であるがゆえに、それ以外のものを「まあ、いいか」と追いやる非常に強い力を持っています。
 それでいいとも思うのですが、ただもう自転車の乗り方やビールの呑み方を忘れるように「作文のしかた」を忘れていきそうで怖い(笑)
 ということで、ここで己のケツを己で叩きます。

 いずれは、僕のものならなんでも読める場所にしていきたいなあ、なんて思うのですが、とりあえず「いまなう」なものをどんどん放り込んでいきたいです。

 どうぞよろしくおねがいします。
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

ソデトーク #01 『GR』


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ここは創作舞台袖。出番待ちの緊張感に震えながら、あるいは出番後の解放感と達成感に浸りながら、言わんほうが値打ちあがるようなことをポロッと言いたい。
 言わんほうがええことの方が、言いたいですよね。


 物書きとしてのデビューは小5なんですがのち中2から高3まで文藝部を経て本格的に復帰したのが28、忘れもしない2000年の3月。
 わ、もうあれから21年かー、ヤだなー!
 それ以来延々と仕事と趣味を兼ねながら、なんやらかんやら書いてきて結局つまるところ要するに、書き物の、といいますか、おそらく創作ってヤツのただ一つのキモは、

「自分が読みたいものを書く」

 これでございます。
 絵なら観たい絵を描き、音楽なら聴きたいものを奏でる。

 そんなことあたりまえじゃないか!
 と思われます?
 じゃ次のフレーズはどうです?

「自分が書きたいものを書く」

「あ」と声が漏れた方は、なんらかの創作に関わったか関わっているか、ではないですか?
 この二つ、微妙な差のように見えて実は決定的に違う。

 前者を
「自分がやってもらいたいことを人になせ」
と言い換えると、いわゆる「黄金律」になりますね。
(ですよね?)
 宗教で処世訓であるいはビジネスの社会でも、よく言われる鉄則です。そりゃ(実現できれば)素晴らしいに決まってます。
 ここで後者を同じように言い換えると、
「自分がやりたいことを人になせ」
になって、これは結構ダメです、よね。
 なのに、創作に限っては後者がよく言われるのです。
 違う違う、そりゃ創作でも前者です。

 まあ、創作ってだいたい、ぼんやりとでも「やりたいこと」があってスタートするものなので、その根本を否定されかねないこの黄金律には、目をつぶりたくもなります。
 ここの矛盾(と表現していい?)、
「やりたいことと、
 やればいいこと(やるべきこと)
 には関係がない」
という点こそが、創作のもっともクッソ難しいところで、多くの創作者が討ち死にしたり挫折したり酒に溺れて肝臓を壊すポイントかもしれません。

 しかしですね。
 逆にいうと、ここの食い違いを、

「やりたいこと」を「やってほしいこと」に変換する

作業だと考えてみてはどうでしょう?
 技術とか工夫とか練習とか丁寧さとかでなんとかなりそうな気もしなくもないでしょう?
 とすると、この変換作業こそが実は、「創作」と呼ばれるものの本質・本体、なのかもしれません。
 創作とは、天啓や降ってくる神様の類を待つことではなく、いまここに、自分の胸のうちにあるいは脳のうちにある、
「こういう本があったら、読みたいなぁ……」
を現実化する、コツコツとした手作業。

 迷ったら?
 書きたい、ではなく読みたい。
 これが判断基準です。

 ではどうやったら、その「読みたい」が生み出されるのか、そこを分析して……はいけません。それはわからないのです。
 そこはなぜか自らの中で「わかる」ものなので、そこに身を委ねるしかない。
 僕もさんざんそこがどうにかならないのかのたうち回りましたけど、最近ようやく諦めがつくようになりました(笑)
 明示的・言語化された基準を持たずに創作の大海原に漕ぎ出るのは不安のように思えますが、おそらくそのイメージそのものが間違っている。
 創作とは、「道」みたいなもので、だいたいそれに沿って歩けばどこかに着くようになってます。
 人生と同じで、分岐を違う方行ったとしても、また「だいたいあるべきところ」に戻ってきたりする。

 僕も「あの中学に入らなければ」「あの大学に入らなければ」「あの会社に入らなければ」「あのクルマを買っていれば」「あのひとに出会わなければ」なんて考えたりすることもありますが、でもたぶんいま現在は、似たような生活で似たようなことをしてると思います(笑)ディテールはもちろん違うんでしょうけど、大枠としてはなんかこんなふうなことをして、こんなふうに暮らしている、だろう。

 で、なぜそうなるのか、そうなったのか、なんてわかりゃしないですよね。
 創作も同じです。
 なぜかそうなるので、そうなるようにあんまり無理をせずに、それに従って、テクテク進む。 
 そうするとほらご覧なさい、目の前には自分の読みたい作品ばかりがこーんなにたーくさん! これぜんぶ貴方が書いたものですよ!

 どうですこう考えると気持ちが楽になるでしょう?
 自分に言い聞かせるように。
 それはひとりよがり?
 一人はよがっとるではないですか、誰もよがらないより無限大良い。
 貴方のセンスが1万人に1人、つまり0.01%ぐらいのマニアックなものだったとしても、日本に13,000人も居るんですよ。全世界だと70万人ぐらい居る。
 素晴らしいではないですか。

 本日のまとめ。

○「観たいものを作れ」
×「作りたいものを作れ」

 創作黄金律、これでございます。
 しーゆー!
posted by 犀角 at 00:00| 雑記

2020年02月10日

ドトール・ブラックカード



 当たった・デー!

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2020年01月06日

椅子「トリップトラップ」ストッケ & 時計「HS554B」セイコー





 ウチの仲間たちには「第一子が生まれたらみんなでまとめてお祝いを贈る」という風習があるんです。

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2020年01月01日

年頭所感


 ことしはもりもり書いていこうと思います。

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2019年12月31日

年末


 毎年恒例「今年の採点」5点満点、今年は文句なく5点満点。

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2019年07月12日

出産


 お産の方も若干記録しておきたいと思います。

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posted by 犀角 at 21:00| 雑記

2019年06月06日

宿題の添削


先日中学高校時代の恩師に宿題を頂いたので
http://rakken.sblo.jp/article/186044220.html
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posted by 犀角 at 23:23| 雑記

2019年06月05日

本『京大変人講座』酒井敏ほか





 安冨先生(京大経済出身)のお知り合いに、
「酔うとドッグフードを買って交番に撒く」
という癖のある研究者がおられるそうですが、そういう人を研究した本ではないです。
「変人講座」とは「変人の主催する講座」のこと。
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posted by 犀角 at 22:15| 雑記

2019年05月25日

宿題


 宿題久しぶり。


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2019年05月03日

音楽サブスクリプション・サービス「Spotify」


 ずっと無料版使ってたのですが、ふと有料版(プレミアム)にしてみました。
 便利ですね。
 あたりまえですが。


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posted by 犀角 at 11:09| 雑記

2019年05月02日

トレーニングマット(アイランズ)




 すごいくさい椅子下マットをご紹介しよう。

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posted by 犀角 at 12:48| 雑記

2019年04月29日

35期プチ同窓会


妻「あんたは年に何回同窓会へ行くんだ」

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posted by 犀角 at 11:26| 雑記

2019年04月23日

健康グッズ「首から背中のバランスボーン」PROIDEA


 昔からこの類ひとつ欲しかったんですけど、いっぱいありすぎてどれ選んだら?
 てなこと言っててもしょうがないので迷った時のAmazon's Choice。



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posted by 犀角 at 10:46| 雑記